06 / 大うそつき  


 

薄荷に蕩す

 
 
 

 東部は悪いところではない。
 
 夏も冬もそこそこに過ごしやすく、内戦であれだけ乱れたというのに人々は朗らかで美人も多い。テロリストどもも赴任し立ての頃から見れば大分大人しくはなったし、食べ物は美味いしほどよく田舎で緑も多い。ただ少し乾燥しているようで火事が多くて、風邪が流行りやすいから自己管理に多少気を遣わねばならないが、それも他の地域と比べていくらかは、という程度。
 
 ただ、空が綺麗過ぎて。
 
 東の大砂漠から風が砂を運ぶこの地域では、時折まるでペンキで丁寧に塗りたくったかのような青醒めた空が広がる。
 コバルトブルー一色のその空は東部の名物のひとつではあるのだけれど、雲ひとつないその空の下に立つとどこか現実感の失せた浮遊感を感じて、少し、眩暈う。
 
 ロイは資料室の天井近くの明かり取りの窓から差し込む光が床へと四角く落ちてるのを眺め、伸びた猫のように弛緩した身体をごろりと仰向けた。今日の強い日差しとの対比で陰は濃く、夏の暑さは軍服に籠もりそれはそのまま逃げずに身体の裡へと溜まる。
 
 熱中症になる、と叱られるかもしれない。
 
 その叱るひとが探しにこないかなあ、と考えて、そういえば彼女は今日は非番だったか、と思い出した。
 幾度思い出しても次に思う時には忘れてしまう。
 背中の下の床は全然冷たくなくて、掃除も行き届いていないから頭の下がざりざりとする。軍服も砂まみれ埃まみれだろうから、多分また中尉に叱られるのだと思う。
(………いないんだった)
 今日は急ぎの仕事もそれほどないし少尉は探しには来ないよなあ、と考えて、ロイは目を閉じた。
 頭が痛い。
 医務室へ行って頭痛薬をもらってベッドでサボろうか、と考えて、そういえば今日は食事をしていないからあの頑固な老軍医は薬を処方してはくれないな、と思い至り、それならなにか胃に入れたほうがいいんだろうな、とも気付いたがそれを考える間ロイは死体のように寝そべったままだ。
 
 怠いなあ。
 何もしたくない。
 
 目を開いても視界が狭いような気がする。暗くて歪んで揺れている。
 昼間なのに夜のようだ、と考えて、ふと窓を見ると四角く切り取られた青一色の空が見えた。ゆっくりと汗が首を伝って背へと落ちていく。冷たい汗だ。
 ロイは目を閉じた。
 
 眠いなあ。
 
 けれど眠れない。
 瞼の裏はちかちかと光が踊っていて、目を開いているときよりも明るい気がした。真っ赤に明滅する瞼は薄く、ロイは両手で覆って外界との距離を稼ぐ。口の中がからからに乾いている。
 
(煤の臭いがする)
 
 光を遮ったのに瞼の裏は赤い。
 血の色だ。毛細血管を滞りなく流れて行く体液の色だ。
 耳の奥でどくどくと鳴る雑音。
 
 静かだ。
 
 どのくらい時間が経ったのかも解らない。午は過ぎたのだろうか。でもまだ午のベルが鳴らない。
 ───否、鳴ったのだろうか。
 
 誰も来ない。
 中尉が来て叱って追い立ててくれないかなあ、と考えて、またああ休みだった、と思い出す。
 
 誰かが来て、引き起こしてくれないかなあ。
 
 背に根が生えたようだ。
 頭が痛くて、暑くて、眠くて、けれど眠れなくて口は渇いて息が熱くて耳鳴りが煩くて瞼の裏は真っ赤で何も出来ない。
 
 夕方になれば雨が降る。
(それは煤の雨だろうか)
 夕立が温度を下げて、夜には涼しい風が吹く。
 
 あと数時間。
 こうして目を閉じていれば夜になる。
 
(そうすれば起き上がれるだろうか)
(立ち上がるだろうか)
(雨の臭う中)
(無意味に)

 
「大佐?」
 
 ロイは目を開き、まだ視界を覆っていた手を退けた。
 
 金色の光が覗き込んでいた。
 
「なにやってんだよお前。仕事しろ仕事」
 盛大に顔を顰めて見せたエドワードは鋼の腕を伸ばしてロイの手を取り、よ、と声を掛けて引き起こした。根が生えたようだった背があっさりと埃まみれの堅い床から離れる。
「…今日は急ぎの仕事はないよ」
「だからって行方不明になってんじゃねーよ。閲禁書架の閲覧許可を書け。今。今すぐ」
「どうしてここにいるんだ?」
「いちゃ悪ィか、さっき着いたんだよ。こないだ電話で言ったろうが、近いうちに寄るって」
「はがねの」
「なに」
 話の噛み合わないロイに溜息を吐き、エドワードはしゃがみ込んでまだ床へと座ったままのロイと視線を合わせた。
「なに?」
「セックスしよう」
「はあ?」
 思い切り嫌そうな顔をしたエドワードは、なに言ってんだバカ、と罵倒し掛けてふと口を噤み眉を寄せた。無造作に伸びた手が軍服のボタンを外す。未だ軍服に包まれたままの両腕を肩へ絡めて顔を寄せると「懐くなよ」と片手で胸を押しやられた。
「はい、上着脱いでくださーい」
 言いながら子供にするように軍服を剥ぎ、エドワードはきっちりと止められたシャツのボタンをふたつ外して襟元をくつろげ、額へ垂れる黒髪を掻き上げた。金色の目が緩やかに笑う。
「この暑いのにこんなもん着込んでたら調子悪くなんだろ」
「………しないのか?」
「まず涼め」
 ロイのシャツの袖を捲りながら言うエドワードは、黒いTシャツ姿で機械鎧を剥き出しにしている。傍らにいつもの赤いコートが落とされてはいるからここまで来る間は羽織っていたのだろうが、「暑い」との言葉通り日に焼けた額にも首にも汗が浮かんでいて、それがなんだかとても健康的に見えた。
「………暑いのか」
「暑くねーのかよ」
「暑いけど」
「わけ解んねぇ」
 まあいつもだけど、と投げ遣りに言って、エドワードは腰を下ろして胡座を掻いた。ズボンのポケットを探って何か取り出し、かさかさと包みを開く。
「口開けて」
 なんだ、と問おうとした口に包みから剥いだ小さなそれが押し込まれる。
「喉乾いてるかと思ってさ」
 すう、と鼻に抜ける匂いは薄荷だ。
「薄荷嫌いだっけ?」
「……嫌いじゃないけど」
 乾いた舌へと貼り付いていた飴が分泌され始めた唾液に溶ける。飲み込むと砂でも呑んだかのようだった喉が容易く潤った。
「……生き物というのは」
「うん?」
「簡単なんだな」
「…何言ってんの」
 相変わらず解んねーヤツ、と呟いてエドワードはロイの顎へと右手を掛けた。いつもは冷たい鋼の手は今日は温い。
 軽く身を乗り出したエドワードが薄荷の匂いの洩れる色のない唇を舐める。目を細めて唇を薄く開くと、今度は唇が合わせられた。
 目を閉じる。ちかちかと瞬く光は白く清浄で、血の色はどこへ行ったのだろう、とロイが不思議に思う間に生身の左手までが頬を包み顔が固定され、膝立ちをした気配がして触れる唇の角度が変わり熱い滑らかな舌が侵入してきた。腕を伸ばすとすぐそばに子供の胴がある。ロイはその背を抱き寄せるように手を回した。
 から、と薄荷飴が歯に当たり音を立てる。薄荷と舌の刺激で流れる唾液が口から溢れて顎をべたべたと濡らした。
 口内の熱は上がるのに薄荷の冷えたような清涼な味に刺激されて逆に体温が落ちて行くような気もする。
 そのバランスの悪い感覚に脳が揺れ目が眩む。
 ごくり、と喉を鳴らして唾液を飲み込むとするりと舌が逃げ合わせた唇がくす、と小さく笑った。
「飴、喉に詰まらせんなよ」
 言ってエドワードの舌が顎を伝った薄荷の味のする唾液を拭った。
「あー、べたべた」
「お前のせいだ」
「洗えば落ちるし、どうせ汚れるし」
 言って、立ち上がったエドワードを目で追うと、苦笑を見せた少年は軽く手を上げて踵を返した。
「鍵閉めてくる」
「いいのに」
「オレがやなの」
 ショートブーツの底が硬い音を立てて書棚の向こうへと消えた。これだけの足音に気付かず横たわっていたのだから、もしかしたら眠っていたのかもしれないなと考えながらロイは壁へと寄り掛かる。窓から落ちる明かりは随分と遠くへと退いていて、背を付けている壁から夜が染み出してくるような錯覚を憶えてロイはがり、と薄荷飴を噛んで砕いた。
 薄荷の匂いで鼻が利かない。
 ごつ、と壁へ後頭部を当てて目を閉じる。
 戻る足音。覗き込む熱。
「あれ、寝てんの? つか、こんな一瞬で?」
 有り得ねぇ、と呟いた子供がさら、と前髪を掻き上げる。その鋼の感触。
 温くて。
 湿っているのは汗か。
 薄荷が薄れてオイルの臭い。
 
 悪くない。
 
「おいこら、狸寝入りだろ」
 僅かに唇を歪めて笑うと、険のある声で言ったエドワードが耳を引っ張った。
「痛いよ、はがねの」
「誘っといてなに寝たふりしてんだよ」
「おや、あの程度でその気になってくれたのか。嬉しいな」
「お前むかつく」
 額へ熱が近付く。鼻先に気配。
 僅かに唇が触れた、瞬間。
 
 壁も床も僅かに揺るがして、まるで爆発でも起きたかのような轟音がびりびりと空気を震わせた。はっと瞠った眼に窓を見上げているエドワードの喉が飛び込み、そうと思う間もなく遠ざかっていた四角い光がかっと真白く染まる。間を置かず今度はおんおんと長く空気を震わせながら雷鳴が轟いた。
「び…っくりしたあ」
 目を丸くして窓を見上げているエドワードの、子供だとばかり思っていたのに意外に喉仏の影が強い喉を見て、ロイはくすくすと笑いその声の響く喉元へと唇を付けた。あー、こら、と喉を響かせて、エドワードがその顔を引き剥がす。
 みるみる間に暗くなって行く室内と、ぱたぱたと耳に届き始めた雨粒と遠くで近くで轟いている雷鳴に、ロイは壁に押し付けられながらまた笑った。
「雨だなあ」
「止むまで外出んなよ、無能」
「してる間に止むよ。夕立だ」
「今日暑かったからなー」
 身長の割には大きな手の関節の太い無骨な指がボタンを外し、鋼の手が胸に滑る。唇が唇を掠めてこめかみへ登り、瞼に触れて、左手が髪を掻き上げて額へとまるで儀式でもあるように口付けた。ロイは薄く笑んで息を落とす。
「………はがねの」
「あによ」
「頭が痛い」
「あぁ!?」
 語尾が跳ね上がる声を上げたエドワードの腰に腕を回し抱き寄せて、ロイは肩口に擦り寄るように鼻先を寄せた。汗と埃と皮脂の臭いがする。
「腹も減ったし」
「って食ってねーのか!?」
「暑いし」
「それは夏だから当たり前」
「眠いし」
「さっきまで散々寝てたんじゃねーのかお前は」
「眠ってもいいか?」
「よくない……つかしたくないなら誘うな」
 どうしてくれんだクソ、と呟く子供の肩口で笑って、ロイは頬を掌で包みちゅっと音を立てて口付けそのまま体重を掛けた。うわ、と叫んだエドワードが仰向けに転がる。
「ッてーなこら! 頭打ったぞ」
 ばたばたと窓を大粒の雨が打つ。時折強く差し込む雷光が視界を灼いて行く。
 ロイは可笑しくなって笑った。
「はがねの」
「なんだよ!」
「好きだ」
「あーそうですか! 脈絡ねーぞお前」
「好きなんだよ」
「解ったよ」
「本当に好きなんだ」
 眉を寄せ、僅かに沈黙したエドワードの両手がロイを抱き寄せる。素直に俯せて、ロイは子供の胸に耳を当て目を閉じた。
 耳の奥の雑音は消えていて、ただ、子供の鼓動が鼓膜を震わす。
「オレはアンタのことは最低な人間だと思ってる」
「そうだね」
「気持ち悪いし」
「…酷いな」
「駄目な大人だし」
「うん」
「手間も掛かるし」
「うん」
 エドワードは僅かに言葉を探し、ゆっくりと黒髪を撫でる。声が胸に響く。
「結構、悲惨な人間だと思う」
 ロイは胸に響く鼓動と声を聴きながらぼんやりと床を眺めた。
「……そうか」
「そうだよ」
「悲惨なのか」
「駄目過ぎてときどき可哀想だ」
「同情するか?」
「いや、同情はしないけど。自業自得なんだろ?」
「うん」
「オレも自分で手一杯だし」
「君も可哀想だ」
「可哀想なのはオレじゃねェ」
 アルだ、ととても当たり前のことのように厳かに言ったエドワードに、もう一度そうか、と返してロイは目を閉じた。
 少し早い鼓動が力強く打っている。生きている証と、覚めやらぬ僅かな興奮を持て余す音だ。
「はがねの」
「今度は何。眠いなら寝ていいよ。つか、なんか食うのが先だと思うけど。頭痛いならここより仮眠室か医務室に」
「していいぞ」
 僅かに沈黙し、エドワードは迷惑そうに呻いた。
「………具合悪いヤツ犯すのは嫌なんですけど。気ィ遣うから」
「嘘だ」
「なにが」
「頭が痛いのも食べてないのも眠いのも。暑いのだけ本当」
 はあ、と深い溜息に胸が沈む。
「お前なあ……」
「すまない」
「死ね。マジ死ね」
 軽く舌打ちし、エドワードは身を起こしてロイの肩を押し遣った。
「し終わったら飯食って薬飲んで仕事するか?」
「腹も減ってないし頭も痛くない」
「お前が嘘吐きなのはもう諦めてるけど、そういう意味のない嘘は吐くな」
 身を屈めて深く口付け、エドワードは絡んでいたシャツの裾をズボンから引き抜き、そのまま膚を撫でながらロイの身体を跨いだ。
 唇が首から鎖骨へ降りていくのを感じながら、ロイは窓を見上げる。雨の影を落とす窓ガラスは透明で、砂混じりの水の軌跡にも汚れはない。
 
(煤の臭いが流れてゆく)
 
「しろっつったのはテメェなんだから集中しろ、バカ」
「……ッ、…あ……は、がねの」
「んー?」
「はがねの」
 なに、と顔を上げると伸びて来た手が抱え込むように頭を抱いた。
「おい、邪魔だよ。出来ねーだろ」
 言いながらも掌を膚に這わせると震えるような吐息が落ちる。その吐息に再び名が混ぜられて、エドワードはやれやれ、と目を閉じた。
「子供に甘えてんじゃねーよ、オッサン」
「はがねの」
「ったく、しょーがねー大人だな」
「はがねの……」
「はいはい、解った解った」
 身を乗り出して頬に口付け、両の掌を耳に押し当てる。
「左手はざわざわいってて、右手は静かだろ」
 瞼が持ち上がり、黒い眼がエドワードを見上げた。
「でもよく聞けば右も音がすんだよ。きしきしいうだろ。ざわざわいってんのと同じで、人工筋肉が煽動してる音なんだ」
 この音を憶えておけ、と言うと、ロイは小さく瞬いた。エドワードは笑う。
「雨なんかすぐに止むよ」
 離れた両手を追ってロイの腕が持ち上がる。それを避けてエドワードは再び笑った。
「捕まえてなくてもここにいるだろ」
「……なにか喋っていてくれ」
 しょーがねえなあ、とネコ科の獣か猛禽のような金色の目を細めてエドワードは口の端にキスをした。
「解ったよ、サー」
 さわさわと幾分落ち着いた水音が鼓膜を叩く。
 ロイは目を瞑り、見たことのない土地の話をするエドワードの声を聞きその手の動きを感じながら、子供の掌の音を思い起こした。
 
 水音は容易く掻き消えて、ざわざわ、きしきしと軋む筋肉の音と、強く脈打つ鼓動が聴こえる。
 
 それは子供の命の音で、この音をなくしたらどれだけ悲しいのだろうと想像して、ロイは嬌声に交えて微かに悲鳴を上げた。
 
 雨が止んだら一緒に食事に行こう。
 
 そう言ったつもりだったけれど、子供に届いたのかどうか。
 
 
 
 子供の身体は酷く熱かった。

 
 
 
 
 

■2004/7/30

エロくしよう、と決めて書いたのにどうして頑なにやってくれないんだこのひとたち…! と自分で書いておきながら憤りました。おかげで無駄に長いのに全然エロくならなかった。18禁にしようと思ったのに。もう。悔しい。(他に言うことはないのか)

意味が解らないのはいつものことなのでなんか深読みしたりしなかったりしてください。(投げっ放し!?)

お題deエドロイ
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