マイフェイヴァリット・ダーリン
失礼しまーすと言って執務室に入るとソファに毛布のみのむしがいたので思い切りダイブしてみた。みのむしはぐ、と短く詰まった呻きを上げてもぞもぞと動き、エドワードを落とさないよう細心の注意を払って仰向けに寝返りを打ちその胸の上でつまらなそうな(と言うよりも大分むかついた)顔をしている少年を毛布の端から出した黒い眼で見た。
「………やあ、はがねの」
「やあ大佐。何寝てんの。オレ今日来るって言ったじゃん。昨日電話したろ。なんのための事前連絡だよ意味ねーだろだったら電話しろなんて言うなよ電話代がもったいないじゃん」
声高になることもなく淡々と、ただ早口になっていくエドワードにうわあこれはえらく不機嫌だ、と頷く代わりに瞬きをして、ロイはもそもそと顎を上げ下げして毛布から顔を出した。首の辺りに出来た隙間から外気が入り込んで来て寒い。
「悪かった」
「謝ればいいって思ってんの」
「思ってない。好きにしていい」
「好きにってなに。セックスとかキスとか? それって大佐の好きなことだろ」
「じゃなくて、殴るなり怒鳴るなり」
エドワードは僅かに沈黙し、それから両の指でロイの頬をつまんでむに、と引っ張りすぐに離した。
「もういい。つかなんでアンタ怒んないの。理不尽だろ明らかに。オレほんとはアンタが夜勤明けだって知ってんだよ。さっき中尉に聞いたんだ。オレが来るからほんとは非番なのに残ってるんだって」
「怒っているのははがねののほうだし、はがねのが怒るのは当然だから、私が悪い」
「アンタが悪いからオレが怒るんじゃなくて、オレが怒るからアンタが悪いわけ?」
「うん」
「意味が解らないんだけど」
ロイはじっと少年を見上げた。いつものにやにや笑いがなくて、エドワードは僅かに居心地が悪く、その居心地の悪さは怒りに転化されて行き、その感覚が自分でも異様で酷く気分が悪かった。
「はがねのは間違ったことで怒りはしないから、はがねのが怒っているなら、私が悪い」
「………オレ、すげぇいっぱい間違うけど」
「でも大事なことは間違えない」
「んなことねーだろ」
「あるんだ。愛してるよ、はがねの」
「意味が解りません」
にっこりと笑ったロイに毒気を抜かれ、はあ、と溜息を吐いてエドワードはみのむしの上から降りた。
大体にしてこいつは嘘吐きなのだ、とエドワードは思う。
ロイはことある事に好きだ愛してると繰り返すが実際に彼が愛しているのは彼の部下であってエドワードではなく、それは好きは好きなのだろうしセックスをするからとかそういう理由とはまた別なのだとは思うが、セックスやキスをすることはまあ流れというかおまけのようなもので、この不誠実な恋人は自分に恋をしているのではないとエドワードは思う。
ただとにかく甘やかしたいだけと言うか、甘えてみせることで甘やかしているというか、とどのつまりは子煩悩なパパがたまの休みの早朝に子供に叩き起こされ眠い目を擦りながらそれでも幸福そうにベースボールに付き合ってやるのと同じような好意だろう(子煩悩なパパというものをマース・ヒューズくらいしか知らないために彼が基準になってしまってそれはそれで問題だとは思うのだが)。
だから結局、今だって数日の寝不足で物凄く眠くて今すぐにでも毛布にひっくるまって夢の世界に帰りたいはずなのにきちんと起き上がって毛布をのけてエドワードを手招いて隣に座らせ懐いた野良犬のように大人しく擦り寄って来るわけだ。機嫌を取っているわけではない。ただそうしたいからそうするのだ。甘やかしたいから甘えるのだ。そこに理屈はないのだ。そういう愛情なのだ。慈しむ、という気持ちはこういうものなのかもしれないとエドワードは考えてそれに少し吐き気がする。
この男にそれは酷く似合わない。
ロイが耳元に口付けた。多分眼を閉じている。頬にふわふわと触る細く柔らかな黒髪がくすぐったくて、石鹸の匂いがする。香水の匂いはない。シャワーを浴びて眠ったのだろう。仮眠を取ったら帰宅できるのにどうしてわざわざシャワーを浴びたのだろうと考えて、そうか自分が来るからだ、と思い至り、何時に来るのかは言っていなかったなとエドワードは思い出した。
「大佐」
ロイは僅かに顔を離して至近距離からエドワードの顔を覗いた。あどけない幼児のような顔で、けれどその目は深淵だ。様々なものを見て、様々な経験を経て、幾度も挫折と諦念を繰り返しささやかな栄光を手に入れて、それが日常の、大人の目だ。
「ごめんな」
挫折と諦念を知る淵のような目がゆっくりと瞬いた。ああ睫が長いなとエドワードは思う。目尻が切れ上がり、白目が少なくて、真っ直ぐに鼻筋が通っていて、彫りは深過ぎず、肌は肌理やかで、有り体に言って綺麗な顔と身体をしているとエドワードは思う。同時にそれは惚れた欲目なのかも知れないと考えて、惚れていると自覚したことに少し腹が立って気分が萎えてなんだかどうでも良くなって、少年は顔を傾けて恋人にキスをした。
「愛してるよ」
ロイは大きく瞬いて、ぽかんと口を開けてエドワードを見た。
「は……はがねの」
「ん?」
エドワードは優しく恋人の頬を両手で包む。
「なに?」
ロイは硬直したまま瞬きを忘れたようにエドワードを凝視して、やがてごくり、と喉を鳴らした。
「はがねの……」
「だから、なに?」
「熱でもあるのか?」
「前言撤回」
「撤回するのか」
「するだろそんなこと言われたら。あーもーアンタなんか大嫌い。帰る」
「帰るのか?」
「帰る」
「何しに来たんだ」
立ち上がりばりばりと頭を掻きながら扉に向かっていたエドワードはノブを握りながら振り向いた。
「アンタの顔を見に」
「………は、」
「は、じゃねェバカ。アホ面」
じゃあな、と言って執務室を出、勢いよく扉を閉めてエドワードははあ、と溜息を吐いた。天井を仰ぐ。
ああクソ、バカ大佐。
「………はがねの」
ひたひた、と床を裸足が歩く気配がして、扉の向こうからおずおずとした、けれど酷く優しい(有り体に言って眠そうな)声が銘を呼ぶ。
「まだいるか?」
「………いるよ」
「私はこれから家に帰る」
「だからなに」
僅かの拍。
「………君も私の家に帰ろう」
そうしてゆっくり二人で眠ろう。
エドワードは胸が萎むほど深く息を吐き、肩を落とした。
「バカじゃねェの」
「うん。すまない」
「オレ眠くないよ」
「眠いよ」
「眠くないって」
「眠いよ。君は眠りたいんだ。アルフォンス君には泊まると言って来たんだろう?」
エドワードは沈黙で返す。笑われるかと思ったが、ロイは笑わなかった。
ただ執務室の扉が細く開いて、伸びてきた手がエドワードの肘をそっと握った。
「眠りに来たんだろう?」
セックスをしよう、とも、キスをしよう、とも、言わない。
ただ共に眠ろうと、そう誘われたのは初めてだった。
だからエドワードはもう一度溜息を吐いて振り返り、扉に手を掛け大きく開き裸足で居場所のない迷子のような面持ちで立っていた大人の襟を掴み引き寄せて、口付けた。
「………好きだよ、大佐」
ロイは今度はにっこりと笑い、うん、と頷いた。
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