鈍色の法悦
オレは(自分で言うのも腹立だしいが)世間一般の同年代よりもちょっとばかり(ちょっとだちょっと!)小柄だったせいか精通を経験したのは割に遅くて13歳になってからだったが、性器を刺激すれば勃起するものだということは結構早くに知っていた。
精通はなくても勃起はする。ただ精液が分泌されることはないだけだ(という話をウィンリィにしたら、あいつは驚きはしなかったがなにやら訳知り顔でそういう話は他の女にはするなと忠告された。もしかしてセクハラなのか、これ)。
だから自慰の存在を知ったときも特に驚きはなかったし嫌悪もなくて、つまり女で言えば月経のようなものなのだと割り切って溜まれば抜いていたし、それと性欲が直結する、という憶えもほとんどなくて、ずっとオレは自分は性欲が薄いかなりストイックな人間なのだと思っていた。
この場合の「ずっと」というのは、賢者の石を探して旅をしていた8年ほどの間、と言う意味だ。つまり、アルフォンスが鎧でいた頃のことだ。
で、今になって、オレはそれが錯覚だったことにしみじみ気付いた。
単にオレの性欲を覚える対象が極端に限定されていただけなんだ。
いや、でも鎧のアルに欲情したことはないから(ないんだって! 本当だっつーの!)、ただヤりたいっつーか、性欲処理みたいなもんとはまた違う気がする。なんつーか、こういうとこ女々しくて自分でも気持ち悪い気はするんだが、オレにとって性交というのはどうも、好きな相手に深く触れるための行為に近い。
つまり気持ちを確かめ合うというか、他にこれだけ深く触れることの出来る行為があるならそれで構わないというか。
アルが鎧でいた頃のあれは、いわゆる法悦に近かった。神や天使の光、つまり聖に撃たれる瞬間に感じるというあれだ。性的快楽など比べものにならないほどの安らぎと快感だ。
オレはアルの側にいるだけで安らげたし、それは多分、アルの魂が今のように肉体に覆われておらず、いつでも鉄の板一枚隔てたそこに存在していたせいだったんだろうと思う。
魂を直接感じることが出来るなんて、性交なんかよりずっと深くて、性的な快感など問題にならないほどの悦懌だ。
だから性欲なんて覚える必要はなかった。アルの剥き出しの魂は性交などなくてもいつでもオレの側にあって、オレはそれに触れ感じることが出来た。
アルに身体が戻ったことはとても嬉しい。物凄く嬉しい。
だが、肉の身体は魂を取り込んで、もう決してオレには触れることが出来ないのだと思うとそれはもどかしい。
アルに触りたい。深く深く触れたい。
ただそれだけなんだ。
オレはアルの側にいたいだけなんだ。
兄さんはどうしてボクとしたがるんだよ、とほとんどやけくそで尋ねると凄い笑顔とともにその答えは返ってきた。
まるで演説のようなそれに、アルフォンスは深く脱力する。
「つまりだな、アル。オレがお前を抱きたがるのは、もうそれしかお前の魂に触れる手段がないからだっておいこらドア閉めんな!」
結構です間に合ってます、とばかりに閉じ掛けた自室の扉の隙間に、がつ、と爪先が挟み込まれた。アルフォンスはうんざりとその隙間から兄を見下ろす。
「………いつでも側にいるじゃない」
「離れたいっつったって離してなんかやらねぇ」
「隠し事だってしてないよ」
「そんなもの何が何でも聞き出すに決まってる」
「鎧のときとなんにも変わらないよ。むしろちゃんと体温もあって感触も解るんだから、前よりずっと近いはずなんだけど」
エドワードはにひゃ、とだらしのない笑顔を浮かべた。
「おう。膚もすべすべだしやわらかいしあったかいし、最高だよな。抱き心地いいぞ」
「いや最後のとこだけわけが解らない。…まあとにかく、そういうことだから。錯覚だから、近いとか遠いとか。前より遠いって言うならセックスしたって近くはならないから。無駄だから」
「無駄っつーことはないだろう」
「いや無駄。凄い無駄。ていうかイヤ。そんな近付き方は大変迷惑ですから止めてください」
「オレのことが嫌いなのか」
「そういう答えにくい訊き方するのやめてくれる。しかも無意識装って確信犯だよね兄さんて。最悪。最低。もう向こう行って。ボク寝るから」
「アルー」
「情けない声出さないでよ、いい大人なんだから」
はー、と溜息を吐き、アルフォンスはぎゅうぎゅうとノブを引いていた手を緩め、ドアをいくらか開いた。
「ボクにもプライベートくらいくれないかな、兄さん」
「………隠し事したいのか」
「そういう意味じゃないよ。そうじゃなくて、嬉しいのはよく解るんだけど、ボクだって元に戻れて凄く嬉しいんだから、それを堪能させてって言ってるの。兄さん貪り過ぎなんだよ」
「……そうか?」
「そう。しかも行き着いた先がセックスって言うのがほんっとわけ解んない。今ボクのプライベートってトイレとお風呂くらいしかないじゃん。寝てるときだって兄さんが夜這いしてこないかと気が気じゃないし」
「夜這い!?」
エドワードがきらきらと目を輝かせた。
「お前……オレが夜這いに来るの待ってたのか! よし解った、そういうシチュエーションがいいんなら」
「都合のいい解釈すんなこのバカ兄!!」
どす、とまともに腹を蹴られ呻いて蹲ったエドワードのつむじを見下ろしながら、アルフォンスは額へ青筋を立てた。
「これからはボクの部屋は立ち入り禁止だから、兄さん」
「なッ……」
「ボク、まともに思春期なかったからね! 今が遅れて来た思春期なんだと思って諦めてよ。思春期の少年なんだから、部屋に家族が入ったら気分が悪いんだよ。それに思春期だからね、セックスに対しても潔癖なんだ。だからボクの前でそういうこと言ったりやったりしないで。解った? 兄さん」
まだ蹲ったまま絶望的な眼で見上げたエドワードに、アルフォンスは腰に両手を当てて溜息を吐く。
「捨てられた猫じゃないんだから……」
「……猫ならお前、拾ってくれたよな……」
「可愛いくてか弱いからね、兄さんと違って」
「か、か弱ければ拾うのか?」
「変なこと考えてるでしょ、兄さん」
アルフォンスは半眼になる。
「兄さんて殺しても死なない雑草みたいなとこが取り柄なんだから、バカなことしないでよ。じゃあおやすみ。さっさと自室に退去せよ」
ぴ、と向かいの扉を指差しノブを掴んだアルフォンスは素早く立ち上がったエドワードに腕を掴まれた。アルフォンスは秀麗な額を曇らせ、眉間の皺を深めた。
「なに?」
「おやすみのキス」
「………………」
「そのくらいはしてくれてもいいだろ」
「…………付け込む気じゃないよね」
「なんだ、付け込むって」
きょとんとしたエドワードに、アルフォンスは苦々しい顔で掴まれた腕を見た。
「この手振り解けないんだよね、ボク。まだそんなに筋力無いから。だからキスなんかしてうっかり押し倒されたら逃げらんないんだけど」
「強姦なんかするか!」
「………この間自分が何したのか憶えてないわけ」
「いやこの間は悪かったけど! 言ったじゃん。お前が嫌ならしないって。だからしない。キスだけ」
「………………」
訝しげにしばし眺め、しかし離す気配のない手に溜息を吐いて、アルフォンスは顔を傾けて兄の唇に軽く口付けた。
「はい、おやすみ。また明日ね、兄さん」
「おう、おやすみ!」
にか、と子供のように満面で笑い、手を離したエドワードは自室へとさっさと消える。その潔い去り際に拍子抜けして、アルフォンスはぽかんと閉じた扉を眺めた。
「………なにあれ」
軽い挨拶代わりのキスで、別に濃厚に唇を食んだり舌を絡めたわけでもないのに、あんな嬉しそうな顔。
ついさっきまでセックスをねだっていたひとには思えない、何を企んでいるんだろう、と額を抱えながら、アルフォンスは扉を閉めて鍵を下ろした。兄が入ろうと思えばこんなものは何の役にも立たないのだが、それでも『入室禁止』の意思表示にはなる。
アルフォンスはごろりとベッドへ横になった。向かいの部屋では壁越しに物音が聞こえることもなくて、だから向かい合った部屋をそれぞれの自室としたのだが、実はそれが結構寂しいことであることにアルフォンスは気付いていた。
鎧だったときは夜の孤独は気持ちよかったんだけどなあ……。
あの静寂の開放感は何物にも代え難く、眠る必要のなかったアルフォンスはどこまでも夜道を歩き、世界と自分としかないような夜を愛していたのに。
眼を閉じ、胸の上に両手を置く。耳を澄ませば身体中にゆっくりと静かに響く、心臓の音と収縮する血管をざあ、ざあと流れて行く血液の音と、規則正しい呼吸の音。
温かなこの体温。
血が速く巡り呼吸が乱れれば容易く体温の上がる、熱い肉の身体。
あのとき、つむじから爪先までを焼けた針が貫いたような気が、した。
指先までが痺れる、身体を取り戻してから最も強く感じた刺激。
アルフォンスはぎくりと眼を開いた。
心臓がひとつ打つごとに速さと強さを増し、胃が沈むように胸の真ん中に慣れない痛みに似たものを感じる。じわりと掌が汗を掻いた。
(うわ……何でだよ)
欲情してんじゃん、ボク。
大きく息を吸うと途中で喉に引っ掛かるように途切れた。それがまるで嗚咽のようで、アルフォンスはやだやだ、と呟いて身を起こす。顔が火照る。
ちら、と脳裏にエドワードの笑顔が浮かんだ。
あっさりと引き上げて行った兄の背を見ながら感じたものが寂しさだったと気付き、ますます憂鬱な気分になってアルフォンスはぷんぶんとかぶりを振った。深く深呼吸をする。
(あー……ダメだ)
「……お風呂行こ」
溜まってんのかなあ、と溜息を吐き、アルフォンスはチェストから着替えとタオルを取り出して部屋を出た。
生理的現象と性欲とは結びついてはいるものの必ずしもイコールではないという事実を、アルフォンスは敢えて思考の外へと追い出して口に出して呟いた。
「あー……彼女が欲しいなあ」
変態の兄なんかじゃなく、可愛くて優しい、華奢な女の子の恋人が。
そうすればこんな奇妙な気持ちにはならずに済むだろう、とそれを逃げ道にして、アルフォンスは嫌な考えを頭の隅へと追い遣った。
変態の兄に相当に感化されてしまっているのだと常識人を自認する弟が渋々ながらに自覚するのは、まだもう少し先の話。
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