18 / 会いたい  


 

後悔のグリーンスープ

 
 
 

 マスタング中将は未だに「鋼の」なんて呼んで兄さんに不興を買っているけれど、兄さんは疾っくに銀時計を返却してしまっているから今は軍属ではない。
 ただやっぱり制限は付きまとっていて、常に所在を明らかにしておかなくてはならないし1週間以上届けている住所から離れるときには必ず担当者(兄さんの場合はマスタング将軍の計らいでマスタング将軍そのひとになってる)に報告をして5日に一度は連絡を入れなくてはならないし(だから電話がないとこには行けない)、そうでなくとも年に2度は必ず中央司令部に出頭しなくてはならないし、何の研究をしているのかをつまびらかに明かしておかなくてはならないし、こっそり見張りは張り付いているし(賢者の石はもうないけれど、あの町でまだ町医者兼『大衆のための』錬金術師を続けているマルコーさんから聞いたところに寄ると銀時計の返却から2年から長くて10年程度で見張りは取れるらしいんだけど、兄さんは実力があるしやることなすこと派手だから目一杯10年は付くだろうという話)、だから実のところ、軍属でいたほうが自由度は高いくらいで兄さんはぶちぶちと文句を言っていたけれど、でもまあ得ていた特権を考えればこのくらいの縛りは仕方がないのかなあとボクなんかは思う。
 でもやっぱり色々と面倒なので、ボクらは将軍と連絡を取りやすく、求めに応じて出頭しやすい中央に住居を定めた。とは言っても下町に家を買ったから、中央司令部まで歩いて行くのはちょっと厳しい距離ではあるんだけど。
 
 軍にとって『鋼の錬金術師』という人材は非常に貴重だったらしくて、今兄さんは軍の錬金術研究機関でオブザーバーみたいなことをしている。
 兄さんは頑なに断り続けていたのだけど(だって銀時計を返したのに結局軍属のままだなんてとっても馬鹿馬鹿しい)、あまりに熱心に頼み込まれるしアームストロング大佐経由で得た大学の研究室のバイト中にも電話がひっきりなしでクビになっちゃうしで結局根負けをした。
 とは言ってもそうなるまでには実に1年の攻防があって、何度も担当者というひとを怒鳴りつけて(ボクが止めなきゃ殴りつけてたろうけど、軍のひとを殴ったりしたらどうなるか考えるだけでも面倒臭い)「絶対にお断りだ!」と憤っていた兄さんと怒鳴りこそしなかったけれどとりあえず電話線を抜くことから始めたボクを説き伏せたのは結局将軍だった。
 
「軍属にはならんでいい。オブザーバーという形で、外部スタッフとしておけばいい。非常勤で済む上に給料は正規の研究員の3倍だ」
 
 いつもの何を考えているのか本心の見えない笑顔で言ったマスタング将軍の提案を、将軍を毛嫌いしている兄さんは鼻を鳴らして退けようとしたのだけど、ボクには悪くない話に思えたから、非人道的な研究をもうしていないことを改めて確認して(ボクがまだ鎧だった頃、将軍たちと手を組んで軍上層部に殴り込みを掛けたことがあって、そのときある程度の膿は吐き出すことが出来た……はず、だし)兄さんに話を受けるように勧めてみた。その判断を誤りだったとは思わない。
 だってどうしたって仕事は必要で(生活しなくちゃいけないし、ボクらのライフワークである錬金術は学問だから、なんにつけてもお金が掛かる)、その仕事を遂行するのに軍からの勧誘は酷く邪魔で、だったら軍属にはならなくていいというし得意の錬金術を生かした仕事は出来るしお給料は高いしで、かなり美味しい部類の仕事だと思ったからだし実際その通りだったからだ。
 
 だから、こうしてときどきトラブルが発生したときなんかに突然召集されて、何日もカンヅメで、朝だろうが夜中だろうが関係なく兄さんの身体が空いたときに1日1回鳴る電話でご飯を食べて少しでも寝るようにと小言を言うことなんてそれなりに慣れっこで、別に小さな子供でも女の子でもないから全然構いはしないんだけど。
 
 しないんだけど、さ。
 
 ボクはソファに上げた足を抱えて膝に顎を乗せ、電話を眺めた。
 
 さすがに、3日も電話を掛ける暇もなく、もう2週間も帰って来ないとなると。
(………あーあ)
 ちょっと寂しいなあ、なんて。
 思っちゃったことなんて。
 
 兄さんには死んでも言えない(調子に乗って何をされるか考えるだけでも恐ろしい。キスで済めば幸運だ)。
 
 ボクは溜息を吐いた。
(………司令部に遊びに行こうかなあ)
 いや勿論、遊ぶ場所じゃないことは解ってはいるんだけど、ボクは以前軍に出入りしていたということで、たまに司令部(勿論将軍のところ)で翻訳やタイプ打ちの仕事をさせてもらっている。壊れた備品を直すことも出来るから結構重宝されていて、事前連絡さえ入れておけば割と出入りは自由だ(と言っても一般人が立ち入り出来る部分まで)。
 しばらく行ってないし、今ちょうど月末決算の時期だから、多分タイプ打ちにうんざりしているハボック大尉あたりに重宝されるんじゃないかとは思う。……んだ、けどさ。
 
 ボクの眼は電話から離れてくれない。
 
(……電話掛けるのなんて5分だろ、兄さん)
 ご飯は食べてるとか寝れなくて眠いとかまだ帰れないとかバカばっかりで苛々するとか。
 家で飯が食いたいとか。
 ベッドで寝たいとか。
 髪の毛洗ってくれよとか。
 ……キスしたいとか。
 ………触りたいとか。
 
 会いたい、とか。
 
 なんでもいいのに。
 
 一言。
 
 もしもし、アル? って。
 ちょっと柄の悪い、でもときどき凄く優しい低い声で。
 
(うわー…ボクって女々しい?)
 
 ボクは思わず頭を抱えた。
 どうしてこんなにあのひとの声が聞こえてしまうんだろう。
 どうしてこんなにあのひとのにおいを思い出すんだろう。
 とうとう兄さんに毒されてしまったんだろうか。ここ3日のボクはかなりおかしい。
 
 多分ちゃんとご飯食べてないし、忙しくて眠れてないし、どうせあのひとのことだからお風呂なんか入るわけがない(せめて2日に一度は入っていて欲しいんだけど)。
 着替えは持って行っているし、つい一昨日新しいのを届けて来たばかり(会えなかったから受付に預けてきたんだけど、届いているかどうかも電話がないから解らない)だから大丈夫なはずだけど、面倒がって着替えていないかもしれない。一緒に兄さんがお気に入りの店のビスケットも一箱入れておいたんだけど、気付いただろうか。翌日以降でも美味しいけどその日に食べないと風味が飛んじゃうんだけど。
 
 ああもう、どうしよう。困ったな。今日もボクはこのソファで寝るんだろうか。
 夜中の電話に備えて。
 
「馬鹿じゃないの……」
 自分に力無く罵倒して、ボクはまた溜息を吐いた。視線の先の電話は沈黙したままだ。
 と、思った瞬間、じりりん、と電話が鳴った。
「はい! 兄さん!?」
 一歩で電話まで近付いて受話器を取り怒鳴りながらリビングボードにぶつかったボクの耳には驚いたような沈黙。
「もしもし!」
 つい怒鳴ってしまうボクに、回線の向こうで相手が『あ』、と息を吐くのが聞こえた。
『あー…申し訳ないね、アルフォンス君。電話待ちだったかね』
「………マスタング将軍?」
 ボクは力が抜けてぶつかった体勢のままリビングボードに電話機を抱えて突っ伏した。
「あ……す、すみません、騒いでしまって」
『いや、構わないが……鋼のはまだ帰らないのかね?』
「はあ、連絡もさっぱりなくてどうなっているんだか……」
 思わず正直に溜息が洩れて、電話の向こうで将軍が優しく笑った気配を感じてボクは赤面してしまった。
「あ、あの、何かご用でしたか?」
『ああ、うん。シンからの公文書の翻訳を頼みたかったんだが……その様子では無理かな?』
「ああ…そろそろご用聞きにお伺いしようかとは思ってたんですけど……」
 歯切れの悪いボクに、将軍はまた少し笑った。微笑ましい、とでも言いたげな、でも少し呆れたような笑い声にボクはまた赤面する。
「すみません……ブラコンで」
『いや、相変わらず仲が良くて羨ましいことだ』
「すみません」
『構わないさ。そもそも本来は一般人の君に頼むべき仕事ではないのだから』
 ボクは電話機を抱いて床へと座り込んだ。
「でも、大丈夫ですか? 翻訳が済まないとお仕事に支障が出るんじゃ」
『ファルマン中尉がね、最近シンの言葉を勉強し始めたところだから、ヤツになんとかさせるさ』
「なんとかって言っても……辞書と首っ引きでどうにかなるものじゃないですよ。シンの言葉って文法からしてボクらの言葉とは違うから」
『まあ、大丈夫だろう。公文書だから以前の親書を照らし合わせれば似たような文は出てくるだろうし』
「………将軍が翻訳なさったほうが早いんじゃないですか? 少し話せるんでしたよね、確か?」
『出来るが、面倒臭い』
 堂々と仕事放棄を宣言した将軍にボクは笑ってしまった。
「もしなんなら、今口頭で翻訳しましょうか?」
『私が読み上げるのか?』
「無理ですか?」
『いや、出来はするだろうが……しかし電話待ちなんじゃないのか?』
 ボクはあは、と笑い、その声の力のなさに少し驚く。それは回線の向こうの将軍も同じだったようで、笑みを納めた真面目な声が、アルフォンス君、と呼んだ。
『研究所に連絡をして、とにかく一度鋼のを帰すように伝えよう』
「え!? いや、そんな……だって仕事なんですから」
『しかし、君を長い間放っておくわけにはいかない。すっかり健康なつもりでいるのだろうが、君は他の者とは違うのだから』
「だ、大丈夫です、本当に。健康診断はちゃんと定期的に受けてますし、どちらかと言うと兄さんの様子を見て来てほしいくらいで」
『………ふむ?』
「ちゃんとご飯食べてるかとか、着替えは届いたのかとか、風邪引いてないかとか、細かいことですけど……」
『ふむ……』
 思案するように呟いて、将軍は小さく溜息を吐いた。
『なるほど、身体的なものというよりは精神的な疲弊か……』
「え?」
『母親か妻のようだな、君は』
「妻!?」
 ボクはひっくり返った声を上げた。
「き、気持ち悪いこと言わないでください!」
 将軍は笑っている。
「もう、人が悪いですよ、将軍! 笑うなんて………な、あ、あれ?」
 ふいに通話が切れた。フックを横から伸びた手が押さえている。
 ぱちぱちと眼を瞬いてボクはその腕を辿って目を上げた。
 
「………なんであの無能と電話なんかしてんだよ」
 
 見上げた先に、寝不足と疲労で酷く頬が荒れ眼の下に隈を浮かせた究極に不機嫌な、物凄く剣呑な顔をした、兄さんが。
 多分この顔、子供が見たら泣き出して夜も眠れないと思う。
 そのくらい険しく、吊り上がった金の眼がぎらぎらと輝いている。
 ボクは兄さんが手を退けたフックに受話器を戻して呆然と久し振りのその顔を見上げた。
「兄さん…おかえり」
「おかえりじゃねぇ。慌てて帰ってくりゃ楽しそうに電話なんか……しかもあの馬鹿と。オレがどんだけお前の声が聞きたかったと」
「電話!」
 段々とヒートアップし始めた低い声を遮って、ボクは思わず兄さんの胸倉を掴んだ。
「電話だよ電話!! なんで電話しないの!!」
「はあ!?」
「ボク昨日も一昨日もずっと待ってたんだよ!? 着替え届いた!? ビスケット食べた!? ビスケットじゃなくてもご飯食べてたの!?」
「た、食べてない。いや、昨日は飯は食ったけどビスケットは気が付いたら食われてて」
「うわ馬鹿!! あれっだけご飯だけは毎日食べろって言ったのに!! 寝てないのは顔で解るけどお風呂……うわ兄さん臭いし!!」
「臭い言うな!」
「もー、しょーがないなあ。お風呂は一眠りしてからでいいからとにかく寝る前になにか食べて」
 言いながら立ち上がったボクの腕を兄さんが掴む。
「話逸らすな! 飯なんか後でいい。つかむしろお前を食う」
 
 後から思うとボクはこのとき物凄く動転していたんだと思う。
 
 と言っても別に将軍と電話をしていたからじゃなくて(まずい話をしていたわけじゃないしむしろ兄さんの話をしていたんだしそもそも男のひと相手に妬くこのひとの思考回路はおかし過ぎる)、なんというか、嬉しくて、とか、心配で、とか、腹が立って、とか、そういう気持ちがごちゃ混ぜで。
 ボクは兄さんに向き直り、ぽんぽんとそのボクより少し低い位置にある肩を叩いて顔を傾けキスをした。
 
 ………その。
 濃厚なヤツ、を。
 
「………兄さんがいつ帰ってきてもいいように枝豆のスープは作ってあるし、冷製肉も作ってあるし、パンとチーズも届けてもらってあるんだ。だからまずご飯食べて、ゆっくり眠って、お風呂に入って、それからにしよう?」
 ぽかんとした兄さんに囁いて、眼を覗き込みながら「ね?」と首を傾げると、このときどき猛獣じみて乱暴な兄は、こくんと素直に頷いた。
 その兄さんをソファへと座らせてキッチンへ向かおうとしたボクを、電話のベルが呼び止めた。行き先を電話へと変えたボクに兄さんは目を吊り上げて何かを怒鳴ろうとしたけれど、受話器を取らずに電話線を引っこ抜いたボクに、開いた口もそのままに再びぽかんと目を丸くした。
 多分将軍がもう一度掛けて来てくれたのだろうし、なら察してくれるだろう。あのひとは妙なところが鈍くはあるけど、大事なところはとても聡い。
 ボクは電話線を放って兄さんににっこりと笑う。
「じゃ、スープ温めるから、ちょっと待ってて。ボクが作ったから大した味じゃないけどさ」
「…………い…や、お前が作ったもんなら、オレは」
 ボクはもう一度にっこりと笑ってキッチンへと足を向けた。
 
 
 ボクが自分の発言を思い出してじたばたと後悔するのは、ご飯を食べた兄さんがボクに優しくキスをして、ベッドに潜り込んでから。

 
 
 
 
 

■2004/7/26
毎回お題を外し気味なのもどうかと思ったので直球勝負をしようと思ったら直球過ぎました。あー…。
しかしどうしてこうも長くなってしまうんだろう。

お題deエドアル
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