オレンジ・ストーン・ストリート
「アルー! 久し振り!」
「いらっしゃいパニーニャ!」
にかっと笑った褐色の肌の娘は大袈裟に両腕を広げて仰け反って見せた。細身の身体がしなやかに動く。
「わー、また背が伸びたんじゃない? エド、あっという間に追い越されちゃったね!」
「うっせぇ!! 余計なお世話だ! ところであの機械オタクはどしたよ」
「広場の工具屋で広げてたジャンク品に捕まってたから置いてきた」
「………ラッシュバレーで何でも手に入んだろーがよ……」
「だってラッシュバレーに行くの来週になるんだもん、て言ってた。エドの手になにかするんだって」
「マシンガンは勘弁してくれ……」
額を抱えている兄を余所に、アルフォンスはパニーニャの手を引く。
「立ち話もなんだし、入って入って。美味しいエンゼルフードケーキがあるんだ」
「あたしバタークリームいやー」
「解ってる、生クリームだから大丈夫。中央で最近評判のケーキ屋さんのなんだよ。兄さんに並んで買ってきてもらったんだ」
へー、と大袈裟に笑ってパニーニャは玄関を閉めついて来たエドワードを肩越しに見た。
「エドがお菓子屋さんに並んでケーキ? 見たかったなあ!」
「お前ウィンリィに似て来たんじゃないか……」
「あー、そういうこと言う? ウィンリィに言いつけてやろーっと」
「パニーニャ、せめてウィンリィのフォローしてあげて……」
額を抱えたアルフォンスと苦虫を潰したような顔をしているエドワードを交互に見、パニーニャはあはは、と笑った。
「あんたたち相変わらずだよね。安心した!」
「キミも相変わらずで安心したよ」
くすくすと笑ってアルフォンスはパニーニャの頬へとキス代わりに頬を付ける。エドワードが毛を逆立てた猫のように目を剥いたのを見て、パニーニャは苦笑した。
「アルってキス好きだよね」
「うん、好き。鎧のときは出来なかったし、誰かさんのせいで抵抗ないしね」
誰かさんねえ。
さあ早く、と手を引かれるままに歩き出しながらまだぴくりとも動かないエドワードを横目で見、パニーニャは笑った。
置いてきたウィンリィが腕に部品を抱えてエルリック家へやって来たのはもう夕方だった。
「ごめんごめん、つい見入っちゃってさー」
「ついじゃねーっての! あーもー、今から出たんじゃ予約に間に合わねーだろ!」
「え、何、レストランかなにか? そんなのキャンセルキャンセル。あたしが作ったげるから」
料理の腕も上がったんだから! と白い腕を掲げて見せるウィンリィに笑って、アルフォンスはエドワードの肩を押した。
「じゃ、兄さん手伝ってあげなよ」
「はぁ!? なんでオレが」
「最近兄さん料理出来るようになったんだよ、ボクより上手いんだ。下ごしらえくらいなら十分出来るから、使ってやってよ、ウィンリィ」
ね、兄さん、とにっこり微笑まれた先の兄はぐぐぐ、と言葉に詰まり拳を震わせている。アルフォンスはにこにこと笑ったまま組んだ足の上で頬杖を突いていたパニーニャの手を取った。
「ボク、パニーニャとちょっと散歩してくるからさ。パニーニャは中央ってあんまり来たことないものね」
「明日でもいいよ?」
「んー、でも、うちって娯楽ないし、ご飯出来るまで暇だよ。この辺は割と下町だけど、涼しくなってきたから気持ちいいよきっと」
「おい、アル!」
「いーじゃんエド、アンタはこっち!」
文句を言い掛けた兄はぐい、と腕を引いた幼馴染みに「邪魔すんじゃないわよ」と囁かれて物凄く険悪な顔をしている。
それを見ながら苦笑して、パニーニャはぽんと立ち上がった。そんな動きをしてもまったく軋まない自慢の両足は今日も滑らかに動く。
「じゃあ、行こっか、アル」
「うん」
ごく自然に手を握られて瞬く間に、アルフォンスは「じゃあねー」と手を振ってパニーニャの腕を引き家を出た。
「アルー」
「うん?」
パニーニャは繋いだ手を指差す。
「当て付け?」
「………誰に」
「エドに決まってるじゃん」
アルフォンスの眉がぎゅうと寄せられ金色の瞳に瞼が半分掛かった。こう険しい顔をするとちょっと大人っぽいよね、とパニーニャは首を傾げながら思う。
「パニーニャまでそういうこと言うわけ?」
「ていうか、バレバレ? エド、隠す気ないみたいだし」
「バレバレって何が!?」
「……気付いてなかったの、アルくらいのものだよねー」
うーん鈍い鈍い、と呟くとアルフォンスが額を抱える。それでも大きな痩せた手はパニーニャの手を握ったままで、擦れ違ったおばあさんの微笑ましそうな視線を感じて少しだけ照れてしまった。けれどその温かく乾いた掌が心地よくて、振り払うことはせずにおく。
「………でもさー」
何を言うべきか、とぐるぐると混乱しているらしいアルフォンスのためにパニーニャは話題を変えることにした。
「鎧のときから考えたら、アルってほんと普通になっちゃったね」
「あはは、そうだねえ。さすがにあんなにでかくはなれないね」
「でも背も高いし、普通にかっこいいよ」
「えー、痩せ過ぎだよ」
「そんなことないって」
「いーや、痩せ過ぎ! 貧弱過ぎ! 絶対鍛えてたくましくなってやる」
「でも、そしたらエドは残念がるんじゃないの?」
アルフォンスがぱちぱちと瞬いた。夕焼けが金色の瞳をきらきらと光らせて、ああなんて綺麗な色をしている男の子なんだろうとパニーニャは思う。エドワードと同じ色だからたしかにこれが本来のアルフォンスの色なのだろうけど、それにしても本当に黄金のようだ。
「だって、エドは今のアルの姿が理想だったんでしょ、多分」
「ちょっと夢見過ぎ、というか勝手過ぎだよ。背は伸びたからよかったけど」
「んー、でも、あれだけチビだったのに今はエドも低くはないしねえ。エドよりちょっと低かったからって、小さくはないと思うけどね」
「………まあ、人間だから体型は変わるし、ちょっとは嫌がるかもしれないけどそんなのボクの勝手だし」
言葉の割に棘のないその口調に、パニーニャはそうだね、と頷いた。
兄に遠慮してこの弟が自由な生き方を放棄したとしたら、そのほうがエドワードは悲しむし怒るんだろう、とパニーニャは思う。だから多分、アルフォンスはエドワードのために、自由に生きるつもりなのだろう。
けれどずっと、あの兄の側で。
不思議なしがらみだ、とパニーニャは思う。身体を造ったひとと造られたひと。神様と人間のような関係。
だけど兄弟で。
とても愛し合っていて。
神様はあれほど人間を愛してはくれないし、人間はこれほど神様をどつき回さない。
「………家族っていいよねえ」
「え?」
「あたし、兄弟っていたことないからさー」
ちょっと羨ましいよ、と笑うとアルフォンスがどこか戸惑うような顔をして眉を下げた。
「……パニーニャはさ、ずるいって思わない? ボクと兄さんのこと」
「ん? 何が?」
「だから、身体とか、足とか……」
繋いだ手にぎゅうと力が込められた。自分の褐色の腕よりも少し太いだけの、筋張って痩せた腕はそれでも男の子の腕で、パニーニャよりもずっと力が強い。
「……身体を取り戻していろんなひとに会いに行ってボクがアルフォンスなんですって挨拶して、ボク、パニーニャに会うのが一番緊張したんだ」
「なんで?」
「なんでって」
あっけらかんとしたパニーニャに、アルフォンスは首を傾げて見せた。鎧姿のときと同じ仕草なのに、今はなんの音もしない。人間の肉と骨の軋みは耳に届くほど大きな音ではない。
「身体が戻る可能性があるなら、足を戻したいだろ?」
パニーニャは瞬く。
「ううん、全然」
「は?」
黒髪を引っ詰めた頭を掻き、パニーニャは首を傾げた。
「うーんとね、あたしにとってはドミニクさんの足は誇りなんだ。人生の一部なの。たしかに凄く大変だったし痛かったし苦しかったし、今でも天気が悪ければ痛むし手入れも大変だけど、でもその苦しいことを切り離して今のあたしはないんだ。だから、もしアルたちがあたしの足を戻せるとしても、そんなのやめてって言うよ」
「………でも」
「いやほんとにやめてね。勝手に戻したりしたら絶交! だからね!」
ぴ、と人差し指を立てて宣言したパニーニャをアルフォンスは無言で見つめ、それからふといたたまれないように視線を落とした。歩調が弛む。
「だってさ……ボクや兄さんが身体を失ったのは自業自得でパニーニャは事故だろ? 自業自得のボクらが罰を放棄して身体を取り戻したのに、不公平だって思わない? ラッシュバレーなんかに行くとさ、どうしようもない理由で身体を失ったひとがたくさんいるじゃない。なんだか、そういうひとを見てるとさ、悪いことした気になるっていうか」
苦しみも含めた人生の、苦しい部分だけを改竄したような罪悪感が。
「アルは難しいこと考えるねえ」
パニーニャはあはは、と明るく笑った。
「あたしは難しいことはよく解んないけどさ、みんな辛いこともひっくるめた人生を頑張って生きてるんだよ。アルたちが……んーと、人体錬成だっけ、それをしたって聞いたらそりゃ俺も戻してくれーって言ってくる馬鹿はいるかもしれないけど、そんなのにアルが罪悪感持つ必要はないんだよ。だってアルとエドはそのために、あたしがリハビリしたりスリしたりドミニクさんたちに甘えたりしている間もずっとずっと大変な旅をしてたんだもん。なんだっけ、錬金術でこういうのって」
「………等価交換?」
「そうそれ。身体取り戻す幸せ分くらいの努力をしたんだよ、エドとアルは。だからいいんだよ。あたしがドミニクさんからもらった幸せ分を今人生楽しんで、お金を稼いで返しているのと同じように、エドとアルはちゃんと代金置いて来たんだから」
それにねえ、とパニーニャは夕焼けにオレンジに染まる白い石畳を見ながら続けた。
「多分ねえ、エドはアルがいなかったら足を元に戻したりはしてないと思うんだ」
「………え?」
パニーニャは片足を上げてぽんと腿を叩いて見せる。
「あたしもエドも整備士に恵まれてるからね、機械鎧でも全然不便はないんだよ。手入れは大変だけど、生身と同じように動かせるし、熱いもの触っても平気だし、あたしなんか冬のさむーい日に裸足で板間を歩いてても凍えないもん」
「………つまり兄さんは、ボクに負い目を持たせないように足を戻したってこと?」
言わずとも察したアルにパニーニャはやっぱり頭のいい男の子だなあ、とにっこりした。
「だって今だって、アルはエドに負い目を感じてるでしょ?」
「そんなことは……」
パニーニャはちっちっ、と人差し指を振って舌を鳴らす。
「あたしに嘘吐かなくていいよ、友達でしょ」
「…………」
「仕方がないことだと思うんだ。エドはそんなふうに思ってはもらいたくないだろうけど、あたしがドミニクさんに凄く恩を感じてしまうのと同じだよね」
アルフォンスはふー、と溜息を洩らして夕焼け空を見上げる。
「……やっぱり、鎧のままでいるべきだったのかなあ」
「それは違うよ」
即座に否定して、ぎゅっと繋いだ手に力を込めたパニーニャをアルフォンスは見下ろす。細い顔に真剣な色を浮かべて、パニーニャは黒い瞳でアルフォンスを見つめた。
「あたしは罪とか罰とかそういうのは解んないし、悪いことしたひとだって幸せになりたいと思う気持ちは止められないと思うし、だからアルたちが罪悪とかそういうのにこだわる理由はよく解んないんだけど、でもアルの場合は違うよ」
「………何が?」
「だから、償うこととか幸せになることとか、そういうの全部が身体がないと始まらないってこと」
褐色の娘は繋いだ手を大きく振る。
「この手のあったかさとか、気持ちいいとかくすぐったいとか、痛いとか辛いとか苦しいとか、そういうことを体感するってことも、人生の一部でしょ? そういうものが全部ない状態じゃ、アルたちのいう罪を償うこととかも出来ないと思うんだ。心が苦しいのはそりゃ辛いけど、でも身体が辛いのも大変なことだもん」
「苦しみを感じることで罪を贖うってこと?」
「あたしはそんなことしなくても、あんたたちが元気で幸せに暮らせばあんたたちのおかあさんも安心だと思うけどねー。でも生きてくためのスタートラインに立つために、アルはどうしても元に戻らなきゃいけなかったと思うんだ」
汚い気持ちや、汚い欲や、そんな肉体から来る気持ちを再度得るためにも。
人間になるために。
「あの鎧がからっぽだったってウィンリィから聞いたとき、あたしすっごく吃驚したけど、でもああなるほどなあってちょっと思っちゃったもん」
「………どうして?」
「人間じゃなかったから、あんなに小さな男の子みたいに汚くなかったんだなあって。アルって凄く前向きで優しくて、今みたいにちょっと捻くれた意地悪とかしない子だったじゃない。してもほとんど冗談で済む事ばっかりで、あたしたち笑わせてさ」
「………今のボクって、汚い?」
「んー、ていうか、ちゃんと男の子してるっていうか?」
パニーニャはにかっと笑った。
「あたしは今のアルのほうが好きだな!」
驚いたように優しげな眼を丸くして、アルフォンスは破顔した。
「ありがと、パニーニャ。ボクもパニーニャが大好き」
「あはは、嬉しい。でもエドに殺されそー!」
「なんで兄さんが出てくるの……」
まあまあ、と笑ってパニーニャはぐいぐいとアルフォンスの手を引いた。
「そろそろ戻ろ。きっとエドがやきもきしてウィンリィに怒られてるからさ」
「………すっごい想像出来てイヤだなあ、その光景」
お皿割れてなきゃいいんだけど、とぼやくアルフォンスにそしたら錬金術で直せばいいよ、と笑ってパニーニャはするりと手を離し、ぽんと駆け出した。
「アル、競争!」
「うわ、狡いパニーニャ! ていうかキミ幾つだよ競争て!」
慌てて追い掛けてくるアルフォンスの足音が靴音であることに少し笑って、パニーニャは敷石からの衝撃をほとんど吸い取る機械鎧に満足しスピードを上げた。背後のアルフォンスが「早過ぎ!」と叫んでいる。
夕焼けにきらきらと輝く瞳が黒曜石のようで美しかった、とアルフォンスが発言して、エドワードが固まってしまったのはその日の夕食の話。
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