何の身もない未成熟な理論。
そんな科学書を膝へ乗せ列車に揺られながら、エドワードは薄く眼を細めた。視界が霞掛かる分聴覚が敏感になり、コンパートメントの薄い壁の向こうを誰かが歩いていく音がする。隣の個室のぼそぼそとした男女の声は睦まじいが落ち着いていて、多分先程ホームで見た仲の良さそうな老夫婦のものだろう。
───あいつ。
ふいに、瞼裏に黒の双眸が過ぎった。
眼を閉じるとそれは更に鮮やかに、宥めるような表情の、どこか儚い微笑に変わる。
子供のように自慢げに笑う。
子供のようにあからさまに眉を寄せ、口下手な少女のように唇を結ぶ。
雄弁な夜色の双眸。
罪悪感に足掻き潰れそうな、落とした肩と細い背中。
エドワードは窓枠に頬杖を突いたまま細く瞼を上げた。夜の車窓に自らの横顔が映り込んでいる。
(あいつ、死んだだろうか)
生きてはいない、のかもしれない。
軍人になど向いていなかった優しく弱い男だったから、最後に会ったとき別れを告げた顔には悲壮感はなかったけれど、あれは多分、死に向かう人間の顔だった。
面影を求め、エドワードは再び目を伏せる。弟の面影ならば目を開いていてもいつでも思い起こすことができるのに、あの闇色の双眸はこうして光を追い出してやらねば浮かんでこない。
(あっちに戻っても、あいつは多分)
いない、のだろう。
アルフォンスに再び巡り会うと決めてこうしてこの世界を彷徨い手掛かりもなく足掻いている。それを迷うことはない。エドワードは必ず、アルフォンスの存在する世界へと赴く。
けれど夜目を閉じて、伸ばしたその手に掻き抱く膚は、そこにはきっと、もう。
愛してる、と譫言のように囁く声に返したことはなかったし、愛してなどいなかったけれど。
縋るように纏わる視線が鬱陶しくて、無理矢理犯してもなにも言わないその態度が腹立たしくて、殺してやりたいと思ったことも一度や二度ではなく愛よりもむしろ憎しみや哀れみを強く感じることのほうが多くて。
黒い瞳が緩く水を帯び揺らめく様に、心が動くことはなかったけれど。
嘘だとしても一度くらい愛を囁いてやればよかったな、と唇だけで呟いて、エドワードは科学書を閉じた。
列車は荒野を走り続けている。