オレの知るロイ・マスタングという男は普段のふざけていい加減な態度とは裏腹に、実はかなりまともでそつのない人物だ。───とオレはたった今まで信じていた。
「…………………」
何か言いたいなら黙ってないでいつもみたいにさくっと言えさくっと。
物言いたげな沈黙を続けながら、大佐がまだオレを見ている。なんなんだもー仕事しろよ、と口の中で呟いて横目で窺えば(前髪に隠れて大佐からはオレが見ていることは解らないはずだ)眉を寄せて一見物凄く不機嫌に、けれど普段の不機嫌ヅラを知っているオレに言わせればなんというか、つまらなそうというか寂しそうというか、つまり端的に言って構って欲しそうにじっとこちらを見つめている。
オレはこっそり溜息を吐いた。
何なのこいつ。
29歳の顔じゃないだろう。というかなんかおかしいんじゃないか。こんな顔する男だったか。つーか忙しいオレの気を散らしてまで構って欲しがるなんてらしくない(そもそも構って欲しがるなんて絶対おかしい)。何か悪いもんでも食ったのか。
「………あのさ、大佐」
「ん、何かね」
オレは大袈裟に溜息を吐いて大佐を見た。
「気が散るんだけど」
「……何もしていないだろう」
「だから、うるさいんだけど、視線が」
大佐はぎゅっと眉を寄せる。こんなことでそんな顔するなオッサン。
「うるさがられるほど見た覚えはないが」
嘘吐け。
「ずっと見つめてたくせになに言ってんだか。そんなにオレに会えて嬉しいわけ? だったらオレも嬉しいんだけど」
「何を馬鹿なことを……」
大佐は僅かに目を逸らした。その頬が僅かに赤く染められていて、明らかに照れている。オレはちょっと待て、と心の中でつっこんだ(実際には固まった)。
そ、そこはバカにして笑うところだろう、マスタング大佐。
オレは思わず引く。
「………大佐さあ」
「なんだい、鋼の」
「……………。……何か悪いもんでも食った?」
大佐はきょとんとオレを見た。
「いいや。何故?」
「………いや、うん。なんでもないならいいんだけど。………熱はない?」
「至って健康だよ。お前こそ派手にやっているようだが、怪我はないのか?」
おいおい今度は『お前』呼ばわりかよ。
「アンタに会えたから元気過ぎるくらい元気」
わはははは。また赤くなったよ。
なんかちょっと面白いぞこいつ、と思いながら、オレは資料を閉じた。どの道こんなにじろじろ見られていたのでははかどらない。
オレは大佐、と呼んで手招きしてみた。いつもなら嫌な顔をして忙しいとか面倒臭いとか用があるならそっちが来いとか言うくせに、今日は僅かに首を傾げて意図を問いそれでもしつこく手招いていると立ち上がってこちらへとやって来る。いつになく素直な大佐はなんかちょっと可愛い(というか気持ち悪い)。
大佐はソファには座らずに、小さな子供でも覗き込むように膝に手を当てて身を屈め、オレを覗き込んだ。
「ってテメェどんだけチビ扱いだアァ!?」
「何を怒っているんだ……小さいのは事実だが」
「一言余計だーッ!! いーから座れコラッ!!」
ぐいと襟を掴んで引き寄せると吃驚するくらいあっさりとバランスを崩し、大佐はソファにどさりと倒れ込む。
「エド………君な、突然何をするんだ」
驚くだろう、と妙に柔らかな口調で大佐は言った。
いや、あの。驚いたのはこっちですが。
エドってアンタ。
「………あのー」
「何かね」
大佐は座り直して弛んだ襟を直した。その袖が少し長い気がする。そう言えば襟元も緩い。軍服のサイズが大きいんじゃないだろうか。
ていうかそもそもこんなに華奢な男だっただろうか。オレがちょっと引っ張ったくらいで簡単に倒れ込んでくるくらい貧弱な。
なのでオレは姿勢を正して端的に訊いた。
「どちら様ですか?」
大佐はむ、と口を噤んで眉を顰めた。なんでこう直ぐに何も言えなくなるんだこいつは。あの口から出任せばかりの大佐とは似ても似つかないというか顔と声が同じだからタチが悪いがオレの恋人はこんなに弱々しい線の細い男じゃない。
「………何が言いたい?」
「いや、実は双子でしたとか二重人格でしたとか言われたらすげー吃驚だと思って。つか痩せた? 痩せたよね? 痩せたって言って。そんで今までのは冗談だよ引っ掛かったなわははとか言え」
懇願が命令になると大佐はますます眉を寄せた。
「口の利き方がなっていないな、相変わらず。……いや、より悪くなった」
あ、今考えてることはなんとなく解る。「やっぱり子供だけで旅をさせるのは」とか思ってる、多分。
でもそれは、オレの知ってる大佐の考えることじゃない。普通の大人の、オレやアルの事情を知らないオレたちをただの子供だと思っている連中の考える、上から見下した思考だ。
別にそれが悪いとは言わない。昔は子供扱いされると物凄く悔しくて反発ばかりしてたけど、最近はそう思われるのが当たり前だと思えるようになった。どう扱われようがどう思われようが、オレが目的を見失わずにしっかり自分の足で立っていれば、それで済むだけの話だからだ。
けど、大佐にそんなことを思われれば、当然腹が立つ。
焚き付けたのはこいつだ。オレとアルに頭を抱えてしゃがみ込んでいるよりは、泥の川でも掻いて渡れと叱りつけたのはこの男だ。
なのでオレはムカついたままにムカついた顔をした。渋面のままの大佐の目が、一瞬不安で揺らいだのが解る。
何か気に障ったのか、と疑問符を浮かべてオレを見る目。
「つか、口で言え」
「え?」
「いや、別に。やっぱなんか変だと思っただけ」
「………変なのはお前だろう。妙に饒舌で」
「こんなもんだろ?」
「いや、柄が悪くなった」
「悪かったなチンピラで……」
「それになんだか子供っぽくなった……」
「………悪かったなガキで」
「……いや、子供というかむしろ……」
大佐は軽く首を傾げて低く視線を走らせ、ふむ、と呟いて沈黙した。オレは続きを待つ。
「………………」
無言。
「ってなんか言えーッ!!」
「え?」
「絶対変だなんなんだアンタほんと誰!?」
オレは大佐の胸倉を掴み上げた。大佐は本気で驚いた顔で何をする、と言ってオレの腕を掴む。
いや、というか、もう少し平気な顔をしてくれ。つか、こんなことで本気でビビるなバカ。
「……鋼」
大佐が戸惑った顔でソファに膝立ちで睨んでいたオレを見上げた。途端オレは揺れる。
何ってあの。
つまり。
が、頑張れオレの理性。
「………頼むからその顔でそんな可愛い表情しないでくれませんか大佐殿」
「私の顔でどんな表情をしようと勝手だろう……というか、可愛いって君ね」
可愛いのは君だろう、とふ、と苦笑混じりに言われてオレはもうムカつくんだかくすぐったいんだか気持ち悪いんだかさっぱり解らない状態だ。
オレはううう、と呻いて大佐の襟を掴んだままずるずると座り込み項垂れた。大佐が鋼の、と呼びながら、そっとオレの頭を撫でた。いやもうそりゃあ目一杯優しく、なんというか、小さい子供にするみたいな手付きで。
「どうした、エド?」
「わはははは」
オレの口から勝手に乾いた笑い声が飛び出た。なんか涙目だ。
もうほんと、その声でつむじに息が掛かるくらい顔近付けて「エド」なんて呼ばれたらアナタ。
「あのね、大佐」
「………ん?」
オレは大佐の襟を離して前髪の間から恋人(?)を見上げた。
「………もしかして誘ってんの」
一瞬ぽかんと目を丸くして、大佐は音が聞こえそうなくらいかーっと真っ赤になってしまった。
「ば、バカを言うんじゃない! 何故私が」
「そうとしか思えねェ。つかそれ以外有り得ねェ」
「こ、ここをどこだと思っているのかね! 不謹慎なことを言うものじゃないよ、鋼の」
「執務室だということはよーく解っているんですが」
オレはまた膝立ちになって大佐の肩を掴んで顔を近付けた。大佐はじりじりと後退はするもののソファに座っているのだからただ上体がわずかに逃げただけだ。かえって押し倒しやすい体勢になってしまった。
それに自分でも気付いたのか、困ったような驚いたような怒ったような顔をして照れていた大佐は、オレがそのまま顔を近付けると、あっさりと諦めたように眼を閉じた。
って閉じるなよ!
「………あのさー」
「…………ッ、……なに、かね」
わーなんでそんな心細い声出すんだ29歳! 三十路! オッサン! バカ!
オレはほとんど泣きたい気分でははは、と乾いた笑いを洩らした。
「ここで黙ってオレの好きにさせておいて、後で燃やすとか別れるとか二度とさせないとかそう言うこと言う気ですかもしかして」
大佐はぱちりと眼を開いた。ぱちぱちと瞬きをするその顔はそんなことは考えもしなかった、と如実に語っていて、オレはどうしようもなく困った。
「ほんと別人なんじゃないの、アンタ」
「何をバカなことを」
「つか、ロイ・マスタング大佐? ほんとに? 29歳でアメストリス国軍東方司令部司令官の?」
大佐は変な顔をした。眼が困惑の色をはっきりと乗せている。いつもは何を考えているのか読めないこの黒い眼が、今日は何故か素直に澄んでいて感情でころころと表情を変える。
「お前こそ本当にエドなのか?」
「………うんまあ、確実に鋼の錬金術師エドワード・エルリックだけどな。でもアンタの言ってるエドかどうかは自信がなくなって来たよ。大体アンタにファーストネームで呼ばれるなんて有り得ねェ」
「………何を言っているのかよく解らないよ」
「オレもよく解んねーよ。ただなんかアンタの様子がおかしいってのだけ解るけど」
言いながら、オレは指を伸ばして軍服の襟を緩めて左手で首筋を撫でた。大佐は困ったような顔を少し赤くして俯く。
「痩せたよな?」
「………いいや、変わっていないと思うよ」
「じゃあなまったんだな。やわやわした身体しちゃって。筋肉落ちたんじゃねぇ?」
「失礼だな……」
「だって首、こんなに細くなかったじゃん」
呟いてボタンをひとつ外し顔を寄せて、頸動脈を舌を伸ばしてそっと舐める。びく、と大佐が竦んだ。舌先に触れる脈がどんどん速くなって行く。
うん、やっぱり別人だと思うよこいつ。
「………エド?」
顔を離して軍服の襟を整えるオレを、赤い顔をしたままの大佐が見上げた。少し黒い眼が潤んでいて、明らかに欲情している。オレはちょっと申し訳ない気持ちになったけれど、黙ってボタンを掛けた(つーかオレが子供にするみたいに大佐の服を整えてやる日が来るとは思いもしなかった)。
オレはぺちぺちと大佐の頬を軽く叩いた。
「オレ、帰るよ」
「………え」
大佐は何か言いたげにオレを見て、ふと眉間に皺を寄せて口を噤み、再び開いた。
「資料はまだ読み終わっていないんじゃないのかい」
そんなこと言いたいわけじゃないくせに、取り繕うようなことを言う大佐にオレは思わず苦笑した。
なんというか、素直じゃないのはいいんだけど、そんな心細い顔して言われても困るんだけど。
「また明日来る」
「……なにか、用事でも?」
「そうじゃねェけど、オレ、オレの知ってる大佐じゃなきゃしたくないし、でもアンタの顔と声でそんな表情されたらちょっと理性押さえるのにも限界あるし、だから明日には元に戻っておいてくれよな」
「元……と言われても………」
「じゃなきゃオレのほうがアンタの知ってる元のエドワードになっておくからさ。よく解んねーけど」
それが一番平和だと思う。
「じゃな、大佐。また明日」
「………ああ、気を付けて」
「まだ日ィ高いっつーの」
オレは苦笑して、軽く手を振って執務室を出た。扉を閉めた途端がくんと膝から力が抜けてしゃがみ込む。
いやもう、なんなのアイツ! あの顔! あの声!
襲うぞマジで!!
オレは機械鎧の右手で口元を覆った。オイルの臭いがする。
「………鼻血出そう」
うう、と呻き、オレは廊下を行く軍人たちの不審そうな視線に晒されながら、身体を伸ばして歩けるようになるまでしばらく蹲っていたのだった。
「大佐ー。オレ昨日凄い変な夢見ちゃった」
「奇遇だな。私も変な夢を見た」
あら今日も来たのエドワード君、と言う中尉の言葉は空耳だったことにして、いつものようにノックも無しで執務室にずかずかと踏み込むと、大佐は顔を上げずに書類を眺めながらつまらなそうに言った。
「えらく乙女で可憐で言葉少なで不言実行な君に襲われる夢だったぞ」
「何それ勝手に気持ち悪い夢見んなよ人権侵害じゃないですかマスタング大佐」
「いや意味が解らない」
「で、その可憐なオレにさせてやったの? エロ夢?」
「返り討ちにしてやった。というかエロ夢とか言うな性少年」
「返り討ちってなに。まさか襲い返したとか言うんじゃ」
大佐は書類から眼を離さないままに左手を上げて見せた。くっきりと白い厚い布地の、甲に錬成陣の描かれた手袋。その人差し指と親指が今にも鳴りそうに合わせられているのを見て、オレは思わず両手を上げた。
「オレは乙女で可憐で言葉少なで不言実行なオレじゃないですから!」
大佐は手を下ろして、そこでようやくオレを見た。いつものにやにや笑いで唇を歪めて書類をぽいと放り、肘を突いて組んだ指に顎を乗せる。
「で、君はどんな夢を見たんだ?」
「ああうん」
オレはソファに歩み寄ってどっかとふんぞり返った。
「純情可憐なアンタを襲う夢でした」
「欲求不満か」
「夢のオレは紳士だったぞー。震えるアンタが可哀想で結局何もせずに立ち去ったのです。すげェいい男だと思わねェ? だから今欲求不満だ」
「純情可憐で襲われて震えるような女の子と付き合ったほうがいいんじゃないか、ジェントルマン」
「そういうこと言うな」
「だったら気持ち悪い夢を見るな」
「お互い様だろ」
はー、とお互い疲れた溜息を吐いて、オレと大佐はそれぞれ天井と執務机の真ん中に視線を逃した。
「………なー、大佐」
「何だ」
オレはちょっと、と言って手招いてみる。大佐はつまらなそうに頬杖を突いた。
「仕事中の上官を呼びつけるとは何事だ。用があるならそっちから来い。じゃなきゃそこで言え」
「サボってるくせになに言ってんだよ」
オレは笑った。よかった、この尊大さ。大佐だ。
「あのさー」
「なんだ」
「抱かせてください」
「……………。…………馬鹿だろう君」
「欲求不満だって言っただろ」
「勝手に不満がってろ。というかここでそういうことを言うな」
「だって今したいんだもん」
「一遍死んで来たらどうだろう。少しは頭の捻子も締まるんじゃないか」
「なーいいじゃん」
「いいわけあるか。そんなに燃やして欲しいのか」
オレは笑った。大佐が気味が悪いものでも見るかのような顔で見ている。というか引いてる。
「………ついに発狂か」
「いやー、大佐だ!」
「わけが解らない」
「よかったー。夢じゃなかったらどうしようかと思った。あんなのアンタじゃねェ」
「大丈夫か君。熱でもあるんじゃないか。病院行け病院」
「って追い出そうとすんなよ」
大佐は面倒臭そうにオレをじろじろと見た。
「で、何しに来たんだ君は」
「資料くれ」
「ああ」
そう言えば、と言う顔で大佐は引き出しから資料を取り出し確かめ、なんだか変な顔をした。
「………どした?」
「誰かが触った跡がある」
「は?」
折り目が付いてる、と言って大佐は一枚一枚資料を捲ってまた変な顔をした。
「………鋼の」
「なに」
「君、この机を弄ったか」
「弄るわけねーだろ」
だろうな、と言って、大佐はこめかみを押さえ資料を差し出した。オレは立ち上がって机へ歩み寄り、受け取った。
「………4ページ目に君のものらしい筆跡で書き込みがあるが」
「は!?」
「見なかったことにする」
放られた資料室の鍵を慌てて受け取ると、大佐は行け、と顎をしゃくった。オレがぽかんとしているともう一度早く行け、と追い立てられて、オレは慌てて扉へ向かった。
「あ、大佐」
「なんだ、早く行きたまえ。仕事の邪魔だ」
「今日定時上がり?」
「残業決定済みだ。日付が変わる前には帰りたい」
「希望かよ」
「うちに来るなら何か食べ物を買っておいてくれ。あと炭酸入りミネラルウォーター。それから先に寝ていてくれると有難い。むしろ来なくていい」
「いや行くし起きて待ってるから心配すんな」
嫌な顔をする大佐にじゃーなと手を振って、オレは執務室を出た。歩きながら資料を捲る。物凄く見覚えがあって嫌だ。その上4ページ目に、悪筆で書き込みが。
オレは見なかったことにして、上着のポケットから取り出した万年筆で書き込みをぐしゃぐしゃと塗り潰した。