一見施錠されているその扉は実は随分と前から鍵が壊れていることはロイだけの秘密だ。何故なら直してやると宣言して錬金術にて確かに一度直してやったものだからだ。 その後元通りに───否、僅かに仕掛けを施して錬成し直したことは誰にも話してはいない。 ただ一人を除いて。 その秘密の共有者はロイ同様追われる者で、追われる者同士連帯感から(一方的に同調したとも言う)この秘密の扉を教えてやったのだ。 この扉の先はベランダだが、ロイが東方司令部へと赴任する随分以前に行われた増築によってどこへも続かないベランダとなってしまっている。この廊下には他に有用な部屋もなく、場所のせいで使い勝手が悪く換気が充分でないため納めた書類がみな湿気て黴びると評判の古く小さな倉庫があるだけだ。 だから誰かが来るということはないのだが、それでもロイは周囲を見回し人影がないのを確認してノブへと手を掛けた。回して引いてみるが、まるで施錠してあるかのようにびくともしない。 よしよし、とにんまりと笑ってロイはノブを回したままぐっと一度押し込んだ。がちん、と微かに手に振動があったのを確認してまたにんまりと笑い、ゆっくりと手前へと引く。この『ゆっくり』がコツなのだ。慌てて開けばまた仮の錠が落ち、扉は閉ざされる。 ロイはベランダへ出、錆びてぎしぎしと鳴るはずのそれがまるで新品のように輝いているのに眼を瞬かせた。もしや、と辺りを探すと案の定隅に小さく錬成陣が描かれている。指で擦るとすぐに掠れる白い線はチョークによるものだ。 ロイは軽く払って錬成陣を崩し、立ち上がってベランダを乗り越えた。そのままどの窓からも死角になっているほとんど誰にも使用されない渡り廊下の天井へと降り、誰にも見咎められないのを確認して足早に過ぎる。 西棟の裏手へと周り窓の庇へよじ登り、軽く軍服を払って足音を押さえて角を曲がり壁に中途半端に付いている梯子へと手を掛ける。ここまでで1分と40秒。 以前は今にも留め具が弛んで落ちそうだったその梯子も新品になっているのを確認して少し笑い、ロイは手を掛け屋上を目指した。 「よ、……っと」 梯子の足りない分を身を乗り出してコンクリートの縁を掴み、両手で身体を持ち上げようとしているとふいに視界が陰り、正面から伸びた大きな鉄の手がわしりとロイの胴を掴んで軽々と屋上へと平均的体型の身体を運んだ。 「……やあ、すまないね、アルフォンス君」 丁寧にコンクリートの上へと着地させられたロイは、余計なことだったか、とでも言いたげに軽く首を傾げて見つめている鎧の少年に片手を上げて見せた。 「やっぱり来ていたね。鋼のがいないいないと探し回っていたからきっとここだと思ったんだ」 言って、ロイはアルフォンスの腹を指差した。 「中かい?」 「いえ、そっちに」 思わず、と言った様子で正直に日陰のタオルの塊を示したアルフォンスは、あ、と呟いて肩を竦めた。 「お見通しなんですね」 「君が兄を放ってここに隠れているときは大抵猫絡みだからな」 そもそもここを教えるに至った切っ掛けが猫だったのだし、と言うとアルフォンスはあは、と苦笑のように力無く笑った。 「大佐は休憩ですか?」 「そう、自主的にね」 タオルの塊へと足を向けるとアルフォンスはついて来ながら「ダメですよ」、と咎めるような声で言った。 「中尉に叱られますよ」 「君こそ兄に叱られるんじゃないか?」 「……もう叱られました」 ふて腐れたような口調がどことなくいつもはさっぱり似ていない兄に似ていて、しかしその中に意気消沈した色がある辺りがあれとは違うな、と考えながらロイはタオル覗き込んだ。 「ああ、これはまた随分と小さいな」 「そうなんです。産まれたばかりだと思うんですけど……寝床の引っ越しのときに親猫に忘れられたのかもしれないです」 「ふん……どれ」 ひょいと無造作に子猫を掴んで片手へ乗せたロイにアルフォンスが慌てる。 「ら、乱暴にしないでください! 弱ってるんですから……」 「腹に入れて歩き回っていたくせに何を言う」 「そ……それはそうなんですけど」 言いながら胡座を掻いて両の掌で包むように子猫を撫でるロイを見つめ、アルフォンスはがしゃんと音を立てて座った。子猫が口を開き、一拍遅れてその喉から細い微かな鳴き声が洩れる。 「腹が減ってるんじゃないのか?」 撫でる手を止めないままにそう尋ねたロイに、アルフォンスはかぶりを振った。 「水も吐くんです……」 「そうか。……あまり触ると弱るだろうか?」 見上げたロイに、アルフォンスはかしゃん、と首を傾げた。眼窩の仄赤い光が絞られるように僅かに明滅する。 「あの……もし嫌じゃなかったら、撫でていてあげてもらえますか?」 ボクではダメなので、と呟く声に、ロイは至極真面目に頷いた。 「承知した」 微かな息に喘ぐ子猫は、身体全体が肺でもあるように呼吸ごとに上下する。その子猫をタオルで包み、さらに掌で温めるロイをアルフォンスはじっと見下ろしている。 「………鋼のは」 「え?」 「君の兄は、こういうことをしてはくれないのかね?」 アルフォンスは僅かに沈黙し、膝を抱えた。 「………これだけ弱っている子を連れて行ってお願いすれば左手を貸してくれますけど、いい顔はしません」 「そうか」 「あ、違うんです、兄さんが嫌なのはそういうことではなくて」 アルフォンスは慌てて両手を振った。 「あの……ボクが悲しむから嫌だって」 ロイは薄く笑う。 「相変わらずのブラコンぶりだ」 「そ、そういうわけじゃ……」 もごもごと呟いて、鎧の少年は子猫を見つめた。ロイはちらりとアルフォンスを見遣り、しばし考えてから片手を差し出す。 「手を」 「………え?」 「手を貸してごらん」 戸惑うアルフォンスの手を掴み、ロイは子猫を支える自らの左手をさらに支えさせるように触れさせ、子猫を撫でる右手の甲へも当てさせた。子猫を包むロイの手が、大きな鎧の鉄の手に覆われる。 「撫でてやりなさい」 体温だけ貸してあげるから、と眼を細めて言ったロイに、アルフォンスの眼窩の光が僅かに瞬く。 アルフォンスは瀕死の息に喘ぐ子猫を見つめ、そっと撫でるように動かした。力加減を調節したロイの手がアルフォンスの動きをトレースして子猫を撫で、温める。 手入れされた鎧はこの程度の動きではきしとも言わず、中途半端な梯子からしか来ることの出来ないこの隔離された屋上には他に誰かがやって来ることもなく、子猫の息は鼓膜を震わすほどは響かず、そよとも吹かない風は木々を揺らさず、澄んだ空には鳥もない。 どれだけそうしていたのか。 ゆっくりと影が長くなり、日陰となっていたその場所には西へと落ち掛けた太陽が差し込み、ロイの背に当たる。アルフォンスの兜にはそれより少し前から日が差し込んでいて、けれど二人は顔を上げずにただじっと子猫を見ていた。 最期の息が落ち、全て空気を吐き出した小さな生き物の身体は思い掛けず薄く、アルフォンスはかしゃん、と小さく響いた音で、自分が俯いたことを知る。 「………有難うございました、大佐」 「いや」 「ごめんなさい、手、痺れたでしょう? 気が付かなくて」 「大丈夫、気にしなくていい」 「それに、きっと中尉が探していますよ」 「今日の仕事は大体終えてある」 アルフォンスはかしゃんと顔を上げた。ロイは悪戯でも企むように笑う。 「なんだね、その意外そうな顔は。そんなにいつもサボってばかりいるように見えたかね?」 「あ、い、いえ……」 慌ててかぶりを振ったアルフォンスにもう一度笑い、ロイは子猫をタオルにくるんだ。 「……君はこうやってもう助からないような猫や犬も拾うのか?」 「え?」 「看取るのは辛いだろうに」 「あ………ご、ごめんなさい。嫌でしたよ、ね」 ロイは眼を瞬かせて少年を見上げる。 「そういう意味じゃない。君が辛いだろう、と言ったんだ」 アルフォンスはあは、と呟いて肩を竦めた。 「兄さんと同じことを言いますね」 「………あんな情緒のないのと一緒にされるのも心外だが」 「でも、大佐と兄さんてちょっと似てます」 ふふ、と笑ってロイの手からタオルごと子猫を掬い上げ、アルフォンスは呟くように続けた。 「……もしボクが死んじゃう時が来たとしても、ボクにはこんな風に瀕死の時は訪れないと思うんですけど、でもやっぱり、誰かにいて欲しいなと思うので」 「獣が人間と同じような感傷を持つことはない」 アルフォンスは顔を上げる。 「……自己満足だってことですか?」 「君は解っているんだろう」 「……………」 再び俯いた少年の鉄の腕をこつんと叩いて、ロイは続けた。 「だが、悲しいことは知っておいたほうがいい。嫌な言い方だが、ひとは慣れるものだから」 「………慣れる?」 「なんでもね。悲しいことも怖いことも、受け止めるときの重さは同じでも慣れていけばそれを負って立つことが楽になる」 「……………」 「子供は悲しいことも怖いことも知らなくていい、などと言うのは大人の感傷だし、それは庇護された子供の特権だ。君たちには当て嵌まらない」 「………そんなつもりで、この子を拾ったわけじゃないです」 どことなく拗ねた言い方に、ロイは微笑を向けて立ち上がった。赤い視線が付いてくる。 「………な、んです、か?」 抱き寄せられた兜をかしゃんと鳴らしてアルフォンスは辛うじてロイの顔を見上げる。西へ落ちる今日最期の太陽に影になった面に笑みが浮かぶ。 「泣かなくてもいい」 「………え」 「元に戻るときまで溜めておきたまえ。なんなら君が元に戻った暁には溜めた分の涙が枯れるまで、胸を貸してやろう」 先ほどまで子猫を包んでいた手が頭を撫でるのが振動で解る。その視覚で捉えるよりも大きく感じる骨張った手に酷く安堵を覚え、アルフォンスは戸惑った。 泣いてもいいよ、とか、泣けよ、とか、そんな風に言われたことはあったのだけど。 涙など零さずとも泣けるのだと。 そう優しいひとたちは言うし確かにそれは真実ではあるのだけれど。 それでも涙が流れないことは、アルフォンスにとっては酷くストレスだ。涙を流さずに泣くエドワードにも流す涙は備わっていて、それを堪えて泣くことと流す涙がそもそもないことは別だ。 無い涙を流そうと、魂を裂くような無い痛みを感じたことは幾度もある。 「………いいんですか?」 「うん?」 「悲しいときに泣かなくてもいいんですか?」 「ああ。涙を堪えるほうが楽なこともあるだろう」 「……ボクは涙は流せないんです」 「だが堪えることは出来るだろう?」 さら、と額を撫でる音がする。アルフォンスは黒い瞳を見上げた。 「涙がないのに堪えるって言うんですか?」 「さあね。だが、泣くのを堪える感覚は解るだろう?」 アルフォンスは子猫を胸に抱き寄せた。 もう大分遠くなってしまったあらゆる感覚の中、喜びや怒りと一緒に残った感情の中に、堪え忍ぶ気持ちはたしかにある。 ああ、これが。 これが涙を堪えるってことだっけ。 「……ボク、元に戻ったら泣き止まないかもしれません」 「それほど涙を溜めているのかね?」 「悲しいことがたくさんあったから」 「………そうか」 でも、と続けてアルフォンスは軍服の胸に額を預けた。 「楽しいことも嬉しいこともたくさんありました。色んなひとに知り合えたし、……大佐たちとも」 「そうか」 「嬉しいときの涙もいっぱい溜めてるので」 くく、と喉を鳴らして笑う振動が、胸を通じてアルフォンスの空洞を震わす。 「では、気が済むまで付き合おう。存分に泣くといい」 「………有難うございます」 「なに、おやすいご用だ」 ロイが離れる。体温を感じていたわけではもちろんないのだけれどなんとなく温かさが離れた気がして、アルフォンスは少し残念に思った。 「さて、そろそろ戻って、その子猫をどこかへ埋めてやろうか」 「はい」 「鋼のも心配しているだろう」 あ、と呟いてアルフォンスは慌てて立ち上がった。 「兄さんを忘れてました」 「私がここへ来る前には既に狂犬のようになっていたからな。叱られるのは覚悟しておきたまえ」 「な、なんで言ってくれないんですか!?」 おや、とロイは眼を細めてにんまりと笑った。 「言ったら戻ったのかね?」 ぐ、と言葉に詰まったアルフォンスに、はは、と声を上げて笑ってロイは跪き梯子へと足を掛けた。 「まあ、援護射撃くらいはしてやろう」 「…………。……じゃあ、ボクも大佐の援護射撃はして差し上げます」 「うん?」 「声が」 コンクリートに腕を乗せたまま、アルフォンスの足下にいるロイは耳を澄ませ眉を寄せた。 大佐、と喚く声はハボック少尉とフュリー曹長のものだ。 「どこッスか! 中尉がご立腹ですよ!?」 「発砲される前に出て来てください!」 「かくれんぼのつもりなら降参しますから! 鬼が降参してんだから出て来てもいいでしょう!」 通り過ぎて行く声を聞きながらアルフォンスはかしゃん、と首を傾げる。 「………中尉、怒ってるみたいですね」 「………そのようだ」 まずい、と呟いて慌てて梯子を降りて行く大人に気を付けて、と声を掛け、アルフォンスはふと空を見上げた。 西は薄く白く、中天はさわやかに空色を乗せる。しかしその青の中に夜の紫紺と小さく瞬く星を見て、アルフォンスは視界を絞った。 「アルフォンス君、行くぞ。見つかる前に墓を作ってしまおう!」 「あ、ボクひとりでも」 「ここまで付き合ったのだから最後まで付き合わせてくれてもいいじゃないか?」 赤い眼光をぱちぱちと瞬きのように光らせて、窓枠の上で見上げて笑う黒髪の軍人に頷きはい、と返した声が自分でも驚くほど嬉しそうに響いてしまって、アルフォンスは再び戸惑った。 ああ、ボク、このひとのことが結構好きなのかもしれない。 黒い眼を細めたその笑顔を見下ろし梯子に足を掛けながら、アルフォンスはいつか来る約束の日が楽しみだ、と思った。 たくさん泣かせてもらって、たくさん笑ってあげよう。 表情のない鎧の顔に表情を見出してくれるこのひとに、本当のボクの顔で、笑顔を。 |
リクエスト内容
「有能大人大佐でロイアル」依頼者様
ゆうき尚さま
■2004/7/28 有能?(凄い勢いで疑問符)
ただのロイアルになりました(目逸らし)。エドアルの兄さんとは別のアプローチで無意識に口説く大佐と落とされたことに無自覚のアル。ロイアルは大好きですが力量が付いていかなくてとほほ。
こんな萌えどころのない話ですが、も、もらっていただけますか、尚さん…(どきどき)。
■JUNKTOP