「鋼の錬金術師ってアレさあ、ここを託児所かなんかと間違えてんじゃないか」
 
 
 
 耳に飛び込んで来たそのあからさまに嘲笑を込めた言葉に、ハボックは思わず足を止めた。つい振り向き発言の主を探すが、混雑しているロビーではどこの誰がどんな会話の流れでそんな発言をしたのかを発見することはもちろん出来ない。
「ハボック大尉。どうした、行くぞ」
「今の聞こえなかったんスか」
 さっさと先へと行ってしまった黒髪の上官を追い掛けて小声で尋ねる。上官はまるで顔色を変えず視線を寄越すこともなく、「聞こえた」と答えた。
「だったら」
 つい責める響きになってしまう声に上官は規則正しい足音を崩さぬままふん、と鼻を鳴らす。
「どうしろと言うのかね」
「……いや、その」
「事情を知らん連中にそう見られても仕方がないさ」
「……まあ、それはそうっスけど」
 ハボックは肩を落とす。
「………アルのヤツはどこ行ったんでしょうね。姿が見えなかったけど」
「研究所のほうの会議が長引いているからな。食事でも取りに出たんじゃないのか」
「あんた冷たくないっスか」
「見た目がどうあれ、彼はもう成人しているんだ。自分の世話は自分で出来るだろう」
「本気で言ってます?」
「無論本気だ」
 ふ、と溜息を吐いて足を止めた上官を僅かに行き過ぎて、ハボックは慌てて顧みた。その鼻先に予定表の挟まったバインダーが突き出される。
「な、なんスか?」
「それ持ってちょっと先に行っていてくれ、大尉」
「って、どこ行くんスか」
「ちょっと野暮用」
「いやあの、俺が少佐に殺されますから」
「すぐ戻る」
 ぐい、と押し付けられたバインダーをつい受け取ったハボックは踵を返し颯爽と引き返し始めた上官を慌てて追うが、さっさと戻れ、と指をさされて困惑する。
「あのねえ!」
「ああ、ひとつ訊くが、ハボック大尉」
「は?」
 くるり、と振り向いた黒い眼は笑みの形に細められている。口角の吊り上げられたなんとも胡散臭い笑顔に、ハボックは警戒した。ろくなことを考えていない顔だ。
「なんスか」
「うん。君が二十歳だったとしてだ」
「……はあ」
「実年齢はどうあれ君はまだ小さいのだから保護者と一緒にいなきゃダメだよー、などと頭を撫でられたらムカつかないか」
「………そりゃ、ムカつきますが」
「うん」
 まだ表情筋は笑顔を保っているが、その瞼の奥の黒い眼がまるで笑っていないことに気付き、ハボックは口元を引き締めた。
(うっわ、怒ってんじゃんこのひと)
 俺のせいか? と背中に汗を掻くハボックを余所に、上司は踵を返しながら呟いた。
「鋼がしていることはそういうことだ」
「へ……大将っスか?」
「早く戻りたまえ。ホークアイ少佐には適当に言っておいてくれ」
「ってちょっと! 将軍!」
 今度こそ振り向かずにさっさとどこかへ消えてしまった上司に、ハボックは額を抱えてしばし嘆いた。
 
 なに考えてんだかね、あのひとは。
 
 厳しい女性上官への言い訳は「少将は腹を下して便所です」にしとくか、とささやかな復讐を決めて、ハボックは憂鬱な足取りで執務室へ向かった。
 
 
 
 
 
「やっぱりここか」
「あれ、将軍。ダメですよ、仕事サボっちゃ」
「そう思うなら雲隠れするときは私の執務室にしておけ」
 アルフォンスはこぼれそうに大きな金の眼をぱちぱちと瞬かせ、ふっくらと血色のいい唇にふわりと笑みを刻んだ。
「探してくれたんですか? 嬉しいな」
「……そう言っておけば私の機嫌が直るとでも思っているのか、君は」
「酷いな。正直に言っただけなのに」
 くすくすと笑い、アルフォンスは芝生に伸ばした足によじ登っていた仔猫を抱き上げた。首から提げている身分証にじゃれつく仔猫をいなしながら、ロイを見上げる。
「兄さんのほうはまだ時間が掛かるみたいだから、ちょっと息抜きしようと思って」
「………息抜きね」
「息が詰まるじゃないですか、軍服ばかりの中にいると」
「軍服は嫌いかね」
「そうじゃないですけど、軍服みたいに堅い制服ばっかりの中だと、ちょっと肩が凝りませんか?」
「その中に15年近くいるんでね」
 眉間に皺を寄せたままロイは並んで芝へと腰を下ろす。そのロイを見上げていた視線をすと空へと上げ、アルフォンスはにっこりと笑った。
「でも、将軍の軍服は好きですよ」
「同じだろう」
「似合ってるって言ってるんですけど」
 ぱちくりと瞬いたロイを横目で見、にんまりと笑った顔に大人は渋面を作る。
「まったく、ろくでもないあしらい方ばかり覚えてくるな、君は。君の肉体が10歳でよかった」
「あれ、何故です? 何も出来ないとか言って残念がってたじゃないですか」
「君が大人の身体を持っていたら、とんでもない女たらしになっているよ」
 やれやれ、と肩を竦めたロイに、アルフォンスは微笑したまま小さく首を傾げた。宥める母親かなにかのようなその仕草に、ロイはふ、と溜息を吐く。
「なんだかこちらのほうが子供になった気分だ」
「将軍はちょっと子供みたいなところがありますからね」
「………あのな、アルフォンス」
 大きな手の堅い親指が、そっとアルフォンスの額を擦った。
「そういうことを他の者へ不用意に発言しないように」
「どうしてですか?」
「口説き文句だからだ」
 くすくすと子供の肉体を持つ青年は肩を揺らして笑った。その仕草はまるきり子供のものだと言うのに、叡智を宿す金の瞳だけが実の年齢以上に老成していて、ロイは時折その中に、無機の存在として在った彼の10年を見る。
 その10年の体験は、彼に他の誰とも違う哲理を築かせた。
 そのためか、時折この青年は哲人めいて浮世離れした思考を見せる。そしてその眼は、達観した老人に近い。
 
 その眼に、ロイはこれ以上なく惹かれる。
 
 完全な死からの再生を果たした、誰とも繋がらない遺伝子を持つ青年。
 
 じっと見つめていると、静かにくすくす笑いを終えたアルフォンスが至高の金属と同じ色の瞳をつと上目遣いにロイへと向けた。僅かに首を傾げ、仔猫を下ろして立ち上がる。ハーフパンツから覗く膝小僧は本当に子供のもので、滑らかに真っ直ぐな足は白い。
 色素がまだ完全には形成されていない膚は紫外線に強くなく、それでも外へと出たがるアルフォンスのために、ロイはこの中庭を教えた。影を作る古い四阿の周囲は木々が茂り、一見しただけでは誰かがいるなど解ることはない。さわさわと木々の合間から吹き抜ける風が心地よく、密会にも昼寝にも重宝する場所だ。
「………かみのけ」
 柔らかに肉付いた子供の小さな手が、ロイの頬を包んだ。
「髪の毛、くしゃくしゃにしちゃったら怒ります?」
「私は怒らないが、ホークアイ少佐に何か言われるかもしれないな」
「そっか、それじゃダメですね」
「髪をセットしているのは嫌なのか?」
 言いながら細い、というよりも小さい腰に片腕を回して抱き寄せると、素直にロイの膝へと乗り上げてアルフォンスはいいえ、と笑った。
「前髪上げてる顔も好きです。かっこいいですよ」
「それは有難う」
「下ろしてるのも好きですけど、若く見えて」
「………悪かったね、三十路も半ばのオッサンで」
「ボクこそ何にも出来ない10歳でごめんなさい」
「キスは出来るさ」
 くすくすと笑い合い額を付ける。端からみたらこれは親子なのだろうな、と考えるとまたおかしくて、ロイはアルフォンスの背を抱き締めた。
「君の兄に発見されたら殺されるかね」
「ボクが守ってあげますから大丈夫ですよ」
 頼もしいことを囁きながらもロイへと寄り掛かり、足下で小さなボールにじゃれている仔猫のように擦り寄ってくるアルフォンスに、ロイはふと微笑して眼を閉じた。
「誰かに何か言われたか」
「将軍こそ、誰かに何か聞きましたか」
「託児所がうんぬんと言っている馬鹿はいたな」
 顔を上げたアルフォンスが真摯な眼で覗き込む。
「まさか、何かしたんじゃないでしょうね? 仕返しとか」
「して欲しかったか?」
「止めてください。事実なんだから」
「だろう?」
 軽い答えにアルフォンスがむっとむくれた。
「何を怒っているんだ」
「………その、ボクのことならなんでも解ってるって顔がちょっとムカついただけです」
「酷いな、解らないことだらけだよ。だからこそ興味深いんだがね」
 短い金髪がさくさくと心地よく膚を刺す後頭部を掌で包み引き寄せて軽く口付けると、アルフォンスはますますむくれた。
「ボクに興味がなくなったら将軍はこういうことはもうしないんですか」
「……うん?」
「ボクが好きだからキスするんじゃないんですか?」
「勿論好きだよ」
「でも、鎧のときのボクのほうが好きですよね、将軍は」
「そんなことはない」
「そっちのほうが興味があったんでしょう」
「何を拗ねているんだ、君は」
 俯き、軽く唇を噛んでアルフォンスはロイの首へと腕を回して抱き付いた。その軽い身体を抱き留め、ロイはアルフォンス、と名を呼ぶ。
「どうした?」
「………別に、将軍に関係のある話ではないんですけど」
 声変わりなどまだ遠い子供の声が、大人の口調で低く囁く。
「ボクは今でも罰を受けている途中で、それは兄さんも同じなんですけど」
「………ふん?」
「ボクらは今とても幸せで、でもそれってよくないことなんじゃないかって思ってるんです。そういう話をすることは今はまだないんですけど……だってボクも兄さんも今のこの幸せを壊すのが怖くって、だからまだもうちょっと甘えていたいなって思ってて、でもそれじゃダメだから、そのうち必ず今ある幸せ分の贖罪を求められるのだろうから」
「………贖罪ね」
 もぞ、と首筋で動く金髪から石鹸と何か甘ったるいような、ミルクのような匂いがする。
「………だからね、将軍。本当はボクは、あなたに優しくなんてしてもらいたくないんです。気持ち悪いって言って突き放してくれるとか、……人体錬成の成功例として興味があるんだって言ってもらえたほうが、ほんとはとても気が楽なんだ。あなたに好きになんてなって欲しくなかったんです」
「それはまた……酷いことを言う」
 そうですね、とアルフォンスは小さく笑う。
「ボクは大事なひとに酷いことばかりしてる」
 
 天国から引きずり下ろしてしまった母さん。
 人生を犠牲にさせてしまうだろう兄さん。
 心配ばかりを掛けているウィンリィとばっちゃん。
 
 それから、───好きなひと。
 
 ロイは無言で金髪を撫でる。細い肩越しに見上げる空は青い。
(罪も罰も、そんなものは君たちの決めた先入観でしか無いのだが)
 そんなものはこの世界の中では欠片ほども重要ではないのだと、君たちは地を這う虫と同列の、ただ流れの中の一でしかないのだと。
 罪悪感など個人の感情でしかなく、天国はなく、地獄もなく、万が一神がいて全てを見ているのだとしても、一々裁くことなどしないのだと。
 
 そう言ってやることは出来るが、けれどそんな言葉は今はまだ気休めにしか聞こえないだろうから。
 
 だからロイはただアルフォンスの小さな頭を撫で続ける。やがて彼が自らその真理に辿り着くまで、言葉なく、ただ。
 
「アルフォンス」
 僅かに顔が上げられ、金の眼がロイを見た。ロイは微笑んでその瞼へと口付けた。
「早く大人になりたまえ」
「………ボク、もう二十歳なんですけど」
「なに、二十歳などまだまだ若造さ。だからもっともっと足掻いて悩んで、そうして早く追い付いておいで」
 
 待っているから。
 
 アルフォンスはきょとんと眼を瞬かせ、それから綻ぶように破顔した。
「はい。きっとですよ」
「勿論だ。君に嘘は吐かない」
「軽々しくそういうことを言うものじゃないですよ。あなたはそもそもが嘘吐きなんだから」
「おや、そんなことはないよ。私ほど誠実な男もそうはいない」
「もう、早速嘘じゃないですか」
 あはは、と明るく声を上げて笑ったアルフォンスに笑顔を返し、ロイはその耳の付け根へと口付けた。軽く吸い付くと抗議の声が上がる。
「兄さんにバレます!」
「バレるように付けるから所有痕と言うんだ」
「もう、また喧嘩になっちゃうじゃないですか!」
「そうしたら君が取りなしてくれるんだろう? あの兄は君に滅法弱いからな」
「どうしてそう余計なトラブルを呼ぼうとするんですか……もう、ボクは平和主義者なのに」
 はあ、と溜息を吐いて肩を落とした小さな恋人に、ロイはくつくつと喉を鳴らして笑い腕の中へと閉じ込めるように緩く抱き締めた。
「あと1年か2年というところかな」
「……何がですか」
「私の我慢の限界が」
 え、と呟きぱちくりと黒い眼を見上げ、一瞬遅れてアルフォンスは首筋まで真っ赤に染めた。その初々しい反応にロイは笑う。
「子供だなあ、君は」
「………純情なんです!」
「そうだな、可愛いよ」
「そう言えばボクの機嫌が直ると思っているんですね……」
「正直に言っただけだよ」
「……さっきの仕返しですか」
「まあ、それもあるが」
 ロイは額を寄せて眼を覗き込む。
「本当にそう思ってもいるんだよ」
 低い囁きに、アルフォンスの肩が僅かに揺れた。軍服を掴んでいる小さな掌がじわりと熱くなる。胸の奥で心臓が踊るのを止められず、アルフォンスは更に近付いてくる黒い眼に、自然と瞼が降りるのを不思議に思う。
 
(我慢しているのはこのひとだけじゃないんだけど)
 
 小さな身体をもどかしく思っているのは、誰よりもこの自分ではあるのだけれど。
 
 絶対に言ってはやらない、と心に決めて、アルフォンスは軍服の背中へと細い腕を回してしがみついた。
 
 足下でボール遊びに飽きた仔猫がかしかしとロイの軍靴を掻き、みゃあんと細く鳴いた。

 
 
 
 
 
 
 
『仔猫の居る中庭』はリクエストをくださったむーあさまのみお持ち帰り・転載可です。
他の方のお持ち帰り・転載などはご遠慮ください。
転載について


リクエスト内容
「大人ロイ×子供アルのほのぼのいちゃいちゃ(アルが幸せ)」

依頼者様
むーあさま

■2004/8/25
見た目が子供でも中身が大人に。…そういう意味のリクエストじゃなかったんじゃないかなわたし。
頑張っていちゃいちゃさせてみたら吃驚するくらいホモになってしまいましたが大丈夫でしたでしょうか。そして幸せなんでしょうかこれ。かなり疑問が残るところです…。

JUNKTOP