まだ鳥の囀りも遠い時間だ。
 こんな早朝にあの寝汚い親友が目覚めているわけはなかったが、この後の予定を考えると今しか訪ねて行ける時がない。司令部で会えるのならば構わなかったが、生憎親友は今日は非番のはずだった。
 しょーがねーな、と軽く口元に笑みを掃いて、男は躊躇いなく預かりものの鍵のぴたりと合う扉を解錠して勝手知ったる他人の家へと上がり込む。そのまま廊下を突っ切り居間へと踏み込み、ああ結構片付いてるな、仕事が忙しくて部屋を散らかす暇がないのか、と過労気味の親友と加えて心労気味の彼の部下を内心で労いながら、男は寝室の扉へと手を掛けた。
 軋みのない扉を開き、カーテン越しの薄い朝日に照らされるベッドの上の影を見る。
 親友らしき黒髪の胸の上に、金髪が乗っている。
 
 あ、しまった、と考えて、このまま居間のテーブルへ鍵を置いて帰ろうか、と男は思った。
 女を連れ込んでいるかもしれないとは考えはしたのだが、昨夜も東方へ向かう夜行列車を待つ間に掛けた深夜の電話に付き合わせた親友が食事もすっ飛ばして寝るためだけに女を連れ込むとはあまり思えなかったから油断していた。ベッドを共にするために自宅へ呼び出すような、つまりそれだけ形式に捕らわれない、親しい恋人がいるとは知らなかった。
 いよいよこいつも嫁さんでももらうつもりになったのだろうか、と薄く笑んで、もう一度ちらりと金髪に目をやり、男はふと眼鏡の奥の緑の目を丸くした。
 
 きり、と、ほんの僅か軋んで動いた、鋼の右腕。
 
 あれ、と思ったときには足が向いていた。
 足音を消してベッドへ近付き眺めると、どこからどう見ても金髪は女性ではなくて、見覚えのある生意気な小僧のものだ。
 親友の上に乗って熟睡している小僧の背は裸で、小僧に敷かれた親友の肩も裸で。
 何より雄弁な、まだ僅かに残る汗の臭いと、男なら誰しも覚えのあるその青い臭い。
 
 嫌悪があるわけではなかった。
 無論男にはそういった趣味はないし、身近に男色家がいるわけでもなかったが、この親友がすることならば男はすべて許容できた。だから趣味をとやかく言うつもりはない。
 つもりはない、のだが。
 男は親友の僅かに眉の寄せられたあまり安眠しているとも思えない寝顔を覗き込んだ。ふ、と、色のない唇から息が洩れる。瞼に黒髪が掛かり、睫が震えるたびに引っ掛かってこちらのほうがくすぐったくなったので、それを払ってやろうと男は指を伸ばした。その指が力のない寝惚けた動きの腕に払われる。
 男は沈黙した。
 
 さて、どうしたものだろう。
 
 途端。
 ぱちり、と音を立てる勢いで親友が瞼を開いた。
 
 
 
 
 
 
 重いから乗るな、と言っているのに人恋しいのか単に寝相の悪さか、時折この子供はロイの上へと身を乗せて眠る。やわな身体をしているわけではないから(相当重いには違いないが)それで潰れることはないが、それでも苦しくて眠りは浅くなりがちで、ロイは半睡の中深い溜息を洩らして胸に乗っている金髪を緩く指に絡めた。
 静かに朝の音がする。
 何時だろう、とぼんやりと考えていると、額の辺りへ熱の気配を感じた。エドワードが目覚めて腕を伸ばして来たのだろう、と何気なく考えて、ならばさっさとどいて欲しい、と眠気の中毒突きながら緩慢にその熱を払い顔を背ける。何か言いたげな、沈黙。
 
 ───沈黙?
 
 つまりそれは何か言いたげな存在がそこにあるということだ。沈黙の気配は不在ではない。そして子供の気配は未だ己の身体の上に。
 
 と、言うことは。
 
 ロイは瞼を跳ね上げた。
「よ、ロイ。って、だッ!?」
 がば、と飛び起きた勢いで子供はシーツへ滑り落ち、同時に覗き込んでいた男とごち、と額をぶつけてロイは枕へ逆戻りした。苦笑のような笑顔で覗き込んでいた男──忌々しいことに親友──は額を抑えて仰け反りなんだか解らない呻きを上げて痛がっている。
「あ…アホ!! 眼鏡が曲がったらどうしてくれんだこの低血圧野郎!! 寝惚けてんじゃねェ!」
 寝惚けていたのならもう少し落ち着いた対応が出来たかもしれない、と思いながら、ロイはこのままシーツを被り突っ伏してしまいたい衝動をなんとか堪え、額を押さえたまま身を起こしてじろりと不法侵入者を見遣る。
 不法侵入の親友、中央勤務のはずのマース・ヒューズは、よほど当たり所が悪かったのか涙目のままロイを見下ろし、どことなくばつが悪そうにへら、と笑った。
「おはよーさん」
「………じゃなくて、お前、なんで」
「いつだったか鍵を預けたのはお前でしょ。返すの忘れてたからついでに返して行こうと思っただけだが」
「いやだからって……チャイムくらい鳴らせ!」
「早朝だしお前非番だって言うし悪いかと思って。……いやまさか、こういう状況だとは思わなかったもんで。女連れ込んでるかもくらいには思ってたがねえ」
 
 女と寝ているところに居合わせたらどうするつもりだったんだろうこいつ。
 
 逃避している、と言うのを充分に理解した上でそんなことを考えながら、ロイは『こういう状況』の元凶を苦々しく見下ろした。エドワードはこの騒がしさの中でも健康的な寝息を立てて眠っている。
 そりゃあ眠いだろう。ロイも眠い(いや眠気はぶっ飛んだが)。今が早朝だと言うのなら、多分寝入ってからそう何時間も経っていないはずなのだ。
 
 ベッドがないから一緒に寝ました。
 
 という言い訳は通用しないよなあ、と半分泣きたい気分で少年の裸の肩と珍しく行為の後シャワーも浴びずにそのまま眠ってしまった一糸纏わぬ自分を見ながら、ロイは額を抱えた。
「あー……の、だな、ヒューズ」
「うん、まあ、お前の趣味をどうこう言おうという気はないんだけどな、ロイ」
 笑みを含んだ声には軽蔑や揶揄の響きはない。ロイは指の隙間からそろりと親友を見上げた。ヒューズは「仕方がねーなあ」と言ってロイの我が侭を許すときと同じ苦笑で、ロイを見下ろし腕を組んだ。
「他に相手は確保出来なかったのか? お前綺麗な顔してっから多分ぽろぽろと相手したいってヤツはいたと思うがね。なんつーか、ひとの親として子供に手を出すのは感心しないというか」
「…………は?」
 ヒューズは笑みを納め、至極真面目な顔で続けた。
「青少年の健全な育成に支障を来すんじゃないか? お前後見人だろう。あんまりよくない癖を教え込むのはちょっと」
「いや待てそれは誤解だ」
 思わず否定してからしまった、とロイは口を噤んだ。
 
 自ら「詮索してください」と宣言してどーする。
 
「何が誤解?」
 案の定素直に尋ねてくるヒューズは、多分ここに寝ている男が成人していたのならこんな無粋なことは言わず(というか見なかったふりで)立ち去ってくれたのだろうなあ、とロイは額を抱える掌の奥で遠い目になった。
 
 ああもう、ちょっと今すぐ死んで来たい。
 
「ロイ?」
「………………」
 
 犯されてんのは俺のほうです。
 とは言えない。なんだか色んなものを失いそうだ。
 
「ローイ?」
 沈黙したままのロイに間延びした声で呼び掛けて、ヒューズが微かに溜息を吐いた。
「まあ、申し開きしたい気持ちは解らんでもないけどな、俺にまで言い訳せんでいいから」
 
 違うんだ誤解なんだ本当に。信じてくれ親友俺は無実だ。
 
 胸の内で叫び、唇からは代わりに深い溜息を吐いて、ロイは男のプライドと少年愛好家の汚名とを秤に掛け、後者をとることにした。
「うん、そうだな。お前に嘘を吐いても仕方がな」
「………るっせぇよ、大佐。んだよアンタ今日は非番だっつって……」
 
 ああもう最悪。
 
 みぞおちを殴り付けて強引に夢の世界へ追い返したい衝動に駆られながら、ロイはより深く肩を落として低く呻いた。
 ぱっちりと目を開いた尋常ではなく寝起きのいい子供は、物凄く死にたい気分で額を抱えて俯いているロイとベッドの脇で困惑げな笑みを浮かべているヒューズを見、うわあ、と呟いて固まった。
「………たいさー……なんでヒューズ中佐がここに」
「うんうん、邪魔して悪かったな、エド。寝てていいぞ、疲れてるだろ。俺はちょっとこっちの悪い大人と話があるから」
「はぁ?」
 エドワードの声が跳ね上がる。途端どし、と腰に抱きついて来たエドワードのその予想通りの行動にロイは額から手を落として溜息を吐き、鋼と生身の腕を引き離しに掛かった。
「離れろ、鋼の。鬱陶しいから」
「ヤだ。アンタこないだ時間全然取れなかったから今日はずっとオレに付き合うって言ったじゃん! なんで中佐にアンタを分けてやんなきゃないの」
「我が侭言うな」
「ヤだ」
「いいからまだ寝てろ。早朝だから」
「アンタが起きるならオレも起きる!」
「あのな」
「言うこと聞かないと今すぐ犯す」
 
 どうしてさっき昏倒させておかなかったんだろう。
 
 視界の端で目を丸くしたヒューズを見ながら、ロイは天井を仰いだ。
 凄い。大抵のことでは弛まない涙腺が弛みそうだ。泣くかも知れない。
「………あのな、お前ら」
 何をどう言っていいものか、という迷いを如実に含ませた声でヒューズが呟いた。
「えーと………。………詳しい状況を訊いてもいいか」
 
 いや訊かないで欲しい。
 
 そんなロイの内心もお構いなしに、この無粋な邪魔者に腹が立つのか、もしくは誰よりも恋人と親しい親友に嫉妬するのか、子供は棘のある声で宣言する。
「見たままだろ。こいつはオレのなの!」
「…………オレの、と言うと」
「だから見たままだっつーの。中佐って結構鈍い? こいつが抱かせるのはオレだけな」
「もう黙れ貴様!!」
 がし、と子供の口を塞ぎもごもごと何か言っているエドワードをそのままに、ロイはこめかみに血が昇るのを感じた。自分は多分今、耳まで真っ赤になったかなりみっともない顔をしているんだと思う。ヒューズの困惑げな視線を感じる。
「ロイ……」
「………なんだ」
 ヒューズはこめかみを掻く。
「俺はどうも誤解をしていたようなんだが」
「……………」
「つまり、なんだ。……えー、お前がさせてやる側なわけ?」
 
 訊くなそういうことを。
 
 無言のロイに、ヒューズが初めて呆れたような長い息を吐いた。
「お前……」
「………頼むからもう何も言うな」
 
 本気で泣きそうだ。情けなくて。
 
 親友はその長い付き合いの中で培った以心伝心によりロイの心情を察したのか、何も言わずにぽん、と黒髪を一度撫でサイドテーブルへと鍵を置き、踵を返した。
「あ、そうだ、ロイ」
 ロイはゆっくりと顔を上げる。ヒューズは寝室の扉の前で笑みの失せた真剣な顔で振り向き、指差した。
「そろそろ離してやらんと窒息するぞ、そいつ」
 目を落とすと未だに口を押さえたままだった子供が小刻みに震えている。思わずそのまま窒息させてやりたい衝動に駆られながら手を離すと、子供はしきりに噎せてぜいぜいと肩で息をした。
「ッにすんだ殺す気かテメェ!!」
 ぎゃんぎゃんと喚く子供を尻目に再び顔を上げると、物解りのいい親友は既に寝室の扉を閉め、姿を消した後だった。玄関の扉が開閉する音が微かに響く。
「………おい、大佐」
 低く呼ばれ、ロイは子供へ視線を移した。エドワードは眉間に深く皺を刻み、酷く真剣な表情で見上げている。
「ショックだった?」
「当たり前だ!!」
「………中佐に知られたから?」
「は? 誰に知られようがショックだが」
 
 ていうかヒューズでまだ良かった。こんなことを吹聴するようなヤツじゃないし。
 
 しかしそんな内心を察することもなく、子供は身を乗り出してロイを押し倒した。ほとんど癖で素直に押し倒されてからロイは引き攣る。
「………おい、なんだ」
「しよ」
「いやしないから!」
「なんで。中佐と会ったから?」
「意味が解らないし」
「じゃー解らせてやる」
「っておいこら! 朝っぱらからやめろ!! 鋼の!」
 子供は愛撫の手を止めない。
 ロイはあーもー、とほとんど自棄のように呟いて、朝日の筋の伸びる天井を見上げた。
 
 あー糞、腹が立つほどいい天気だ。
 
 
 
 
 
 
 煙草を燻らせ司令部までの道のりをのんびりと歩きながら、ヒューズは僅かに苦笑した。
 士官学校は女性がいないわけではないが少なかったし軍部にはもっと少ないから、中には男色家や両刀なんて者もいるし、戦地では特に男を好むわけでなくても新兵を狙って犯す者もいる。
 だから身近にはいなくてもそういう人種の臭いはそこかしこにあって、軍人としては細身で綺麗な顔をしたあの親友がそういう連中に目を付けられていたことがあることを、ヒューズはよく知っていた。
 あの自分の常識の外のことには異様に鈍い親友自身は気付いていなかっただろうし、もし迫られでもしたら得意の焔で相手を焦がすくらいはしたのだろうが。
 
 しかしそんな連中の毒牙をかいくぐって来た親友が、あんな子供に捕まるとは。
 
 あいつらしいなあ、とヒューズはもう一度笑う。
 間が抜けているようで隙のない親友の、けれど確実にある小さな隙をすとんと突かれてしまったのだろう。妙なところで仏心を出すヤツだ。
 こちらを睨み付けた子供の鋭い金の眼を思い出す。
 あの子供は親友を心底慕っているのだろう。この自分に嫉妬してしまう程に。
 
 あの執着は親友の助けとなるだろうか。
 
 むしろ邪魔になるのかもしれない、と考えて、もし邪魔となるのなら、そして万が一、妙なところで甘いあの親友がその甘さ故にあの子供を引き剥がせないとしたら、そのときは自分が引き剥がしてやろう、とヒューズは決めた。
 けれど今は多分、あの執着が親友の癒しとなるのだろうから。
 彼が許していることを、自分が禁じてやる謂われはない。
 
(ま、しばらくは楽しくやれや、エド)
 
 嫉妬は恋心だけにあるものではないのだと、言ってやらなかったのはちょっとした意地悪だ。
 自分が手にしたものがとれだけ価値のあるものなのか、今のうちに堪能すればいい。
 くっく、と喉を鳴らして笑い、ヒューズは懐から写真を取り出し、その愛らしい愛娘へとキスをした。
(さー、パパは今日もお仕事頑張りますよー)
 
 公も私も引っくるめて、あの親友を高みへと押し上げてやるために。
 
 司令部の門前で、門番の敬礼へ軽く手を挙げて挨拶をし、ヒューズは高みへの一歩として親友の踏んだ階段へと足を掛けた。
 
 今日は晴天だ。

 
 
 
 
 
 
 
『せめて雨なら』はリクエストをくださった千剣さまのみお持ち帰り・転載可です。
他の方のお持ち帰り・転載などはご遠慮ください。
転載について


リクエスト内容
「ヒューかアイにうっかりエドロイ現場に遭遇されて
物凄く焦る大佐の話(SS設定エドロイ)」

依頼者様
千剣さま

■2004/7/21
お題を外した気がします。エドロイでヒュ→ロイ…? いやヒュとロイは恋愛じゃないですが。うちの大佐にしては精一杯焦ってますがこのくらいのようです(笑)。アイ姐さんにすべきだったかも…。
こんなのになっちゃいました…すみません…。>千剣ちゃん

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