陣幕の片付けにばたばたと走る者達の合間を避け、隅の長持に腰掛けて手甲を解き、佐助は片手を持ち上げくんと嗅いだ。
(……鉄臭い)
 油と汗の臭いが混じる。意外と血の生臭さはないが、何故か火薬の臭いがした。
 何か火器でも触ったんだったかな、と考えて居ると、佐助、と名を呼ばれ反射的に顔を上げる。
「真田の旦那。どうしたの、休んでなって」
「お前の姿が見えぬから、探しに来た」
「何、さぼってるとでも思った?」
「まさにさぼって居るではないか」
 はいはいすみませんねえ、と肩を竦めると、冗談だと返して幸村は長持の隣に座った。地べたに直接腰を下ろした主に長持の上を譲ろうとすれば、手を上げて制止される。
「怪我でもしたか」
「いえ、掠り傷ばかりですよ」
「……では、浅井殿の奥方に言われた事でも、気にしたか」
 一つゆっくりと瞬いて、佐助は厭だなあ、と苦笑する。
「聞こえてたんですか」
「耳に入った」
「別に、気にしちゃいませんよ。こんな世の中だ、戦場に立てば誰の手だって血塗れですしね」
 軽く言ってやれば、うむ、と頷いて、けれど承服しかねる顔で幸村は黙り込んで居る。その眉を寄せた難しい顔に困ったなと頬を掻いて、それにしてもさ、と佐助は口調を明るく変えた。
「お市の方でしたっけ、彼の奥方様、凄い目の色をしてたよね。流石魔王の妹君って感じでさ」
 ふっと、首を傾げる様に、窺う様な仕種で幸村は佐助を見上げた。あれ何か拙い事でも言ったかな、と佐助は戯けた様に上げ掛けて居た手を下ろす。
「何色だった」
「旦那、見なかったの? ほら、銀色って言うか、赤って言うか、紺って言うか、魔眼ってのは、ああ言うのを言うのかねえ」
 蒼天と夜の混じる紫の空の様な、朧な銀輪の鋭い縁の様な、燃え立つ夕陽の、血の様な赤の、昏く淀んだ鉄錆の様な、
「……佐助」
 伸ばされた手が、額当てを外してぺたりと額に触れた。
「何、」
「お前、本当に大丈夫か」
「はあ? 旦那に心配されちゃおしまいだ」
「茶化すな。大体、其れは一体どういう色なのだ。赤で紺で銀など、どれも違う色では無いか」
「あ、うん? そうだね、そう言えば。けど」
 空に視線を彷徨わせて眉を寄せると、暫し其れを見詰めていた幸村が、黒だ、とぽつりと呟いた。
「え?」
「某には、黒に見えた。射干玉の様な」
「烏扇の、」
「うむ。呑まれそうな程の黒に思えた」
 佐助はちらりと地面に視線を走らせた。記憶の中の、哀しげな美しい顔が、ふいに嘲笑を閃かせる。白い貌に、赤い赤い唇がきゅうと端を吊り上げて、けれど其れでも未だ、否、更に壮絶に、此の世の者とは思えぬ程の美貌の、その双眸は夜の闇より尚昏く、
「───ああ、うん、黒かった」
「お前、黒だとは一言も言わなかったぞ」
「いや、……やっぱりちょっと疲れてんのかね。多分、ほら、篝火とか、白刃の反射とか映り込んだのが、印象に残ったんじゃないですかね。何たってえらくお美しい方だったからさ、貌ばっか見ててさ」
「馬鹿者。女子の貌に見蕩れて不覚を取ったでは、笑い者だぞ」
「はいはい、申し訳ねえ。不覚も取らずに済んだ事だし、大目に見てよ」
 首を竦めて軽く謝罪すれば、幸村は額当てを長持の端へ置き、其れから掴んで来ていた濡れた手拭いを差し出した。
「ん? 良いよ、さっき軽く汚れは拭わせて貰ったし、旦那使いなよ」
「顔を拭け」
「え?」
 立ち上がり、差し出していた手を返して額当ての無い顔を半分、何かに付け大雑把な主には似合わない丁寧な、けれどやはり細やかとは言い難い仕種で拭い、汚れた其れを佐助の手に握らせて幸村は踵を返した。
「血塗れだ」
「え?」
「彼の奥方の、返り血だ」
 言って、ざくざくと大股に立ち去って行く背と揺れる赤の鉢巻きを見送り、佐助は黙って顔を拭う。
 顔に張り付いていた魔性の血を拭い取った途端香った生臭さに、ぞっと粟立った首を竦めて、佐助はやれやれ、と小さく呟いた。

 
 
 
 
 
 
 
20070217
初出:20070130