「謙信様謙信様って、まったくよく飽きないもんだねえ」
 うっとりと『あのお方』の話をするかすがを頬杖を突いて眺めていた佐助は、感嘆の余韻を破り呆れた声を上げた。じろり、と鳶色の目が佐助を睨む。
 だってさ、と佐助は肩を竦めた。
「忍びがお主様あ、なんて、変だって」
「煩い! お前も一度あのお方の素晴らしさに触れれば、そんな口は利けなくなるに決まっている!」
「あれ、ご対面しても良いの?」
「良いわけがないだろう! 馬鹿!」
 自分で言っといて、と唇を尖らせて不満を示し、それから佐助は両手で頬杖を突き直した。
「まっ、お前は女だからそんなだけど……」
「お前、私を馬鹿にするのか!」
「違うって。でもくのいちの考える事ってな、やっぱりちょっと俺らとは違うじゃない。恋だ愛だってさ、」
「そんな邪な想いであのお方のお側に居るわけではない!!」
 絶叫したかすがをまあまあ、と宥め、佐助は懲りずに続けた。
「そういうことにしといてもいいけど、」
「お前に譲歩などされたくない!」
「じゃあ忠義でいいよ、忠義で。でも忍びと忠義なんざ、無縁のもんじゃないのよ」
 肩で息をしていたかすがは、苛々と眉根に皺を寄せた。
「お前、そんなだからいつまでも根無し草なんだ」
「金が全ての世の中ですよ」
「戦の直中に居て、よくそんな事が言えるな」
「あれ、」
 佐助は唇を上げて無邪気に笑った。
「戦の直中だからこそでしょ? 金だけは裏切らねえよ」
 堅く忠義を誓っていた武士が主を裏切る様など幾度も幾度も見て来たし、その裏切りの刃となって誅殺することもしばしばだ。
 無論忍びというものはそういうものではあるし、一度引き受けた仕事はどれだけの端仕事だとしても、裏切りはしない。他からさらに金を積まれたとして、それに靡くこともない。
 無論端金で動く佐助ではないが、金での契約は必ず遂行する、それが矜持で、信用だ。忠義のない忍びの、最後の砦だ。
「………お前、今は武田だったか」
「うん。戦場で会うかもね。上杉とは因縁深い家だろ」
「どんな感じだ」
「あれ、探り入れてる?」
「馬鹿。そうではなく、どんな家で、どんな主だ」
 お前にとって、と続けたかすがに、佐助はどんなって、と首を傾げた。
「普通だよ」
「……武田の頭は、普通とはどうにも言い難い男の気がするが」
「いや、まあ、ちょっと変わってる軍かなとは思うけど、俺の仕事には関係ねえよ。大体たかが忍び一匹が、大将と顔合わせることなんか、ねえでしょ」
「お前、自分は優秀なのだと………」
「そりゃ、いずれは大将直々に密命受けるようなこともあるかもしんないけど、まだ仕事もらうようになってちょっとしか経ってないしなあ。まあ、給料もそこそこもらえてるし、しばらくは居てもいいかなって感じ」
 かすがはまだ眉根を寄せたまま、腕を組んで幹に凭れた。
「武田には、真田という家があるだろう」
「ああ、うん。今はすっげえ声がでかい若武者が頭領かな」
「真田幸村か」
「それそれ。それが?」
「真田忍びの話は、お前も知っているだろう」
 佐助は肩を竦めた。
「この家業やってて、知らねえやつなんかいねえだろ。お前とは違うけど、あいつらも忍びらしくねえよなあ。真っ赤な陣羽織着て、雄叫び上げて闘うんだぜ。武田に仕えながら忠義がないなど、とか怒られちゃったよ、俺様。そのうちいびり出されるかもー」
 へへ、と巫山戯て笑った佐助に、かすがはさもありなんと頷いた。
「あれは心は半ば武士だからな」
「そうねえ」
 だけど、それで? と問うと、かすがの視線がふと和らいだ。
「いや、……真田をよく使う武田だから、忍びの使い方は他家とは違うように思ったんだが、お前のその様子ではそういう事でもないようだな」
「そりゃ、上杉みてえに謙信様謙信様の忠義者の忍びばっかなんて家、そうそうねえって。それこそ真田とか、そのくらいだろ」
「北条には風魔がついたというが」
「あいつらは俺よりずっと金に厳しいよ」
 そうか、と頷き、かすがはさて、と立ち上がった佐助を見た。
「お前、暫くしたらまた根無し草に戻るのか」
「うーん? そうねえ……暫くは武田で稼がせてもらって、それからかな」
「………謙信様の処へは来るな」
「ええ、酷い言い方」
 途端ぎろりと睨まれて、佐助は怖い怖いと笑って高い襟を引き上げた。
「冗談だって、寄らねえよ。一旦捕まったら、飛べなさそうじゃねえか、上杉なんか」
「飛べない?」
「羽をもがれるってこと」
 にこ、と笑い、佐助はつと空へと手首を差し出した。
「さて、そろそろ帰りますか」
「待て。どういう意味だ。謙信様は、何も……」
「だから、お前もうもがれてんじゃねえか」
 ぐるりと猛禽のように旋回し、ばさりと舞い降りた大烏が手首を掴む。
「俺様は自由でいたいんだよ、っと! こんな世の中、金と自由がねえようじゃ、さっさと死んだほうがましってもんだ」
 籠の鳥なんざごめんだね、と言い置いて、大烏に連れられるままにあっという間に上昇した細い躯を見送って、かすがは未だ少年とも呼べるほどに若い、年下の男に眉を寄せた。
「………いつまで童なんだ、あいつは」
 それとも男というものはそういうものなのか、と溜息を吐いて、かすがはかすがの光の元へと帰るため、つと手首を差し出した。

 
 
 
 
 
 
 
20090304
初出:20081127