おっかねえなあ、と昔の佐助は苦笑とともに度々そう言った。
 それは怯えではなく、窘めだったり呆れだったりしたものだが、大抵が深い情と気遣う気配を秘めていて、だから幸村は誰の前でも憚ることなく己の全力でいられた。幾千幾万の敵が恐れ逃げ出そうとも、佐助は必ず付いて来ると信じて疑っていなかったからだ。
 
 
 今の佐助は幼い。 
 幸村は優しく、ある程度の距離を持って今生の佐助と付き合って来たし、これからもそうするつもりだ。時折、旦那も丸くなったもんだねえ、とあの頃には持ち得なかった優しさを掛けた折りなどに、佐助は幼さに似合わぬ物言いで感心をする。
 しかし得物を持ち闘うことはなくなったとはいえ、幸村の牙が抜けたわけではない。佐助へと剥き出して見せれば怯えて逃げてしまうかもしれぬと思うからこそ今は隠しているが、油断する小さな背中にいつでも食い付ける、唇を捲ればすぐそこに見える場所に置いてある。
 牙を覗けば、佐助はおっかねえ、と言って逃げてしまうだろう。小さな子供には、大人の男というだけで恐ろしいものだ。それが、子供の身からすれば害意としか思えぬ感情で目を光らせているのだと知れれば、五百年来の付き合いの幸村が相手だとしても、僅かなりとも恐怖を覚えるだろう。
 だから幸村は、ただじっと待っている。その柔肌に牙を食い込ませ、お前はおれの物なのだと知らしめる機会を窺っている。
 
 ああ、だが、あれは佐助だ。
 
 今の佐助もあの頃のように、どんな幸村を見ても苦笑と情を持って赦してくれるだろうか。
 小さな身体と子供らしい精神と成長を見るに、それは無謀な賭けに思われた。しかし昔の佐助ならば、と時折ふとそう思う。
 昔の佐助は、と過去と現在を完全にリンクさせてしまう幸村を、佐助はどう思うのだろうか。そのことについて話したことは、そういえばまだ無かったように思う。己が構わぬからと言って、佐助にもそれを押し付けてもいいものか、どうか。
 だが佐助の意向を伺うことなど本気でする気はない己にも、幸村は気付いていた。佐助は構わぬと言うに決まっていると、知っているからだ。しかしその時幼い本心が、嫌悪を抱かぬとも限らぬ。
 幸村のものであるということに、嫌悪を。
「っ!?」
 襟元に伸びた気配に、咄嗟にその腕を掴み上げると真ん丸に瞠った目と視線が絡んだ。
「………驚かすな」
「そりゃこっちのセリフだよ! びっくりしたあ。襟が捩れてたから、直そうと思っただけだよ」
 そうか、と手を離し、未だ靄掛かる寝不足の頭をソファに落として腕を瞼の上へと乗せると、てとてとと離れた佐助が続けた。
「まったく、おっかねえなあ」
 思わず腕を外して小さな小さな背を見ると、テーブルの向こうにしんなりと落ちていた膝掛けを取り、広げながら踵を返した佐助がふとこちらに気付いた。きょとんとした顔で、あどけなく首を傾げる。
 外国の血の混じる青白いような白い顔は、けれど年相応に幼い。大事に背負っているランドセルが少しくたびれて来て、四年生になったら鞄にしようかなと言っていたのは、先日のことだ。今度の誕生日にでも買ってやろうかと企んでいるが、佐助の両親に承諾を得てからのほうがいいかもしれない。
 度々息子を預かる都合上、幸村は佐助の両親とも親しく付き合いがある。もともと、佐助よりも先に、父親のほうと面識があったのだ。
「なあに?」
「………いや」
「風邪引いちゃうよー。ちゃんとベッドで寝たら?」
 言いながら、まだ眠気の残る顔をしていたものか、まだ寝るんでしょ? と尋ねながら佐助は起き上がりもしない幸村の腹へと膝掛けを掛けた。
「ここで寝るなら毛布と枕もってくるよ」
「うむ……」
「どのくらい寝るの?」
「一時間で構わぬ」
「はあい。そしたらごはん」
「何を食いたいか考えておけ」
 はあい、と高い声が良い子の返事をして、佐助は毛布を取りにリビングを出て行った。
 幸村は腕を頭の下へ敷き、天井を見詰める。いつだったか蜘蛛が巣を張ったのを、蚊がいなくなっていいと放っておいたら、どこの戦国のあばら屋だ、と憤慨した佐助に掃除されてしまった。椅子に乗り重い掃除機をふらふらと抱えて吸い取ってしまった佐助は、そういえば今生、虫が大層嫌いなのだった。
 違うところはあるものだ、と幸村は思う。しかしもしかすると隠していただけで、あの頃の佐助もまた、虫が嫌いだったのかもしれないとも思う。
 
 牙を恐れるならばそれはもしかして、あの頃の佐助も苦笑の裏で、怯えを抱いていたのかも知れぬと。
 
 今の幸村よりも遙かに隠しごとの上手かった忍びを思いながら、幸村は抱えた毛布に埋もれるようによたよたと戻った佐助をふいに抱き寄せて、苦しい潰れる、と悲鳴を上げさせた。

 
 
 
 
 
 
 
20090304
初出:20081126