「あー! またジャージとか着てるし!」
駄目って言ったじゃん! とやかましく喚きながらソファにぽいぽいと鞄と上着を放った佐助に、絨毯に座り込み広げた新聞の上で足の爪を剪んでいた幸村はちらと目を向けた。
「お前も着るだろう」
「俺様はいいの! 旦那はもっとちゃんとした格好してよ!」
折角かっこいいのに、と唇を尖らせながらやって来てべったりと横にくっついて座る佐助をそのままに、幸村は再び足に目を落とした。
「ちゃんとした、とはどういう格好だ」
「え、こう……スーツとか」
「家でか」
「シャツとスラックス」
「洗濯が面倒だな。おれはアイロンが使えん」
「クリーニングすればいいじゃん」
「仕事着に加えて部屋着もか。無駄ではないか」
「そんな所帯じみたこと言うなよ!」
つい最近中学に入ったと思えばもう二年も終わりの佐助だが、思春期だけあってか近頃頓に扱いづらい。
むくれた顔を視界の端で見ながら、幸村は爪切りを振って中の爪を落とした。
「あ、じゃあさあ、着物とかは? うちで洗えるのとかあるでしょ」
「着付けが出来ん」
「うそ! 出来ないわけねーだろ!」
「昔の話であろう。頭では覚えてはいるが、かれこれ五百年ほど着付けておらぬからな」
「じゃあ俺様が着付けてあげるから」
「だから、アイロンが使えぬというのに」
うー、と不満げに呻り、佐助は飛び散った爪を摘んで新聞紙の上に乗せた。
「ときめきがない!」
「………何を言っているのだ、お前は」
ときめき、と言い慣れも聞き慣れもしない類の言葉を繰り返してみせると、佐助はわずかにばつが悪そうな顔をした。
「女子がさー、男の話してたんだけど、休みにデートしたらちょう格好良かったとか言ってて」
「それで?」
「ときめいちゃったーとか言うから……」
「お前はときめかんのか。おれはいい男なのだろう」
「そうだけど、だから、ジャージとかやめてほしいんだって! おっさんくさいじゃん」
「充分おっさんだが」
「違うよ! やめてよばか! 俺の旦那はおっさんじゃねえよ!」
女のようなことを言って幸村の上着を掴み、がくがくと揺さぶる佐助を軽くいなし、幸村は向き直ると生真面目に見詰めた。
「お前は女子ではなかろう。何故女子の話に乗るのだ」
「そうだけど……」
「男なのだから見た目など拘るな」
「いつの時代の話だよ!」
虫の居所が悪いのか、もう! と頭を振って憤慨し、佐助はふっと気を落とした。ちらと見た目が悪戯を企む色をしている。
「ね、旦那。キスして」
幸村は片眉を上げた。佐助はあからさまに強請る仕種で首に両腕を絡めてくる。
なるほどときめき、と口の中で呟いて、幸村は一つ嘆息をして柔らかな赤毛を立てた小さな頭に手を回す。そのまま薄く口付けると触れた唇が機嫌良く笑った。離れ掛けた唇がすぐ様追われる。
啄む口付けを繰り返すと、佐助はくすくすと声を立てて笑う。もう機嫌が直ったのか、と呆れながら、幸村は何気なく、軽く佐助の頭を支えていた手に力を込めた。角度を変え、普段より深く口付ける。首に絡んでいた腕が、ぴくりと小さく跳ねて緊張をした。
怖がらせたか、と力を抜き掛けた幸村と裏腹に、固まり掛けた佐助がふいにぎゅうと強く抱き付いた。幸村は目を細め、夢中で唇を押し付けてくる未だ幼い顔を見る。
ふと、瞼の裏へと走る薄く緑掛かる目が、今生の記憶であるのかは判然としない。
それをはっきりと分けてしまう必要を幸村は今まで感じた事はなく、また佐助にも区別を付けさせようと思った事はない。あの頃とは逆の、あの頃よりもずっと年を隔てて生まれ巡り会った今生ではあったが、今の佐助も過去の佐助も幸村にとっては同じ人間だ。
だが、肉体には違いがある。また、社会的な立場というものにも違いがあるのだ。
だから幸村は未だ小さな子供を身も心も己のものであると印を付けてしまうことはしていなかったし、まだ待つつもりでもいる。ただしあの頃とは違って、目に見える形で佐助に己が幸村のものであると、自覚させてしまう必要はあると感じてはいた。
今の佐助は奔放で、自由に過ぎる。油断をすれば、幸村を置いて簡単にどこか知らぬ空へと飛び立ってしまうだろう。
故に幸村は、気を長く待っているように見せ掛けて佐助に油断をさせながら、その実いつでも虎視眈々と奪う隙を狙っているのだ。牙の隠し方が巧くなったのは、年齢のせいなのだろうと思う。ならばこの年の差は有難いものだ。佐助がもう少し幸村と年が近ければ目敏く牙の存在に気付き、恐れをなして逃げ出していたかもしれない。
だが、元来幸村は堪え性のないほうだ。自覚はある。そのために普段は出来るだけ、己にとって必要でないことには距離をおいて物事を見るようにもしている。しかしその箍は緩く、危うい。
その箍が軽く外れた気配を察したときには、強く背を抱き寄せ薄く開いた唇から舌を押し込んでいた。子供の未だ高い声が喉の奥で小さく呻きを上げる。しがみつく手が、襟を掴んだ。
濡れた音を立て口内を犯すと、柔らかな舌が懸命に絡んだ。綺麗な歯並びの前歯が、蹂躙する舌を軽く噛む。深く差し入れた舌で上顎の柔らかな部分を擦れば、ぶるりと細い背が震えた。
気付くと絨毯に押し倒していた身体を下に、散らばる髪を横目に見て、幸村は苦しげに胸を上擦らせる佐助に、外れ掛けていた理性の箍を些か名残惜しく思いながら掛けた。
唇を離し、流れ落ちる唾液をべろりと舐め取って見下ろすと、真っ赤に逆上せた顔をした子供が、目をまんまるく見開いて幸村を見上げていた。弛んだ腕は、まだ肩に掛けられている。
「………ときめいたか?」
低く問うと、佐助ははっとしたように飛び起き幸村の身体の下からあっという間に這い出てた。
「と、トイレ!!」
慌てて叫び、どたばたとリビングを駆け出して行った足を見送って、幸村はのろのろと身を起こした。
「……若いな」
胡座を掻き、はー、と息を吐きながら呟いて散らかしてしまった爪を見遣った幸村は、危なかった、と胸を撫で下ろしてがしがしと頭を掻いた。
「危うく食ってしまうところだった………」
何のために今まで我慢をしたのか解らん、と呟いて、幸村はうっすらと燻る下腹を宥め顔を顰めたまま散らばった爪を拾った。
20090304
初出:20081116
企
虫
|