「あれ、」
 玄関先に散らばっていたのだろう新聞とチラシとダイレクトメールの束を片手にリビングへとやって来た子供は、幼い顔の丸い目をぱちくりと瞬かせた。
「また煙草吸ってる」
 幸村は瞬きを返し、捲り掛けていたページを離して銜えていた煙草を指に摘んだ。
「毎度珍しがるな、佐助」
 ヘビースモーカーという程でもなく、子供の身体に良い物でもあるまいと佐助がやって来ている時には控えていることも多いから確かに毎日目にすると言うこともないだろうが、それにしてもいい加減慣れていい頃だ。
「だって、」
 佐助は軽く肩を竦め、眉を上下させた。子供のぎこちなさはあるものの、外国人の真似でもしているような、昔と変わらぬ仕種だ。
「昔の旦那って、清廉潔白って感じだったからさ」
「煙草ごときで評価が落ちるか」
「いやいや、評価ってんじゃなくって、なんかさあ……堅物だったから、酒も煙草もしないみたいなイメージっていうか」
「昔の方が大酒飲みだったように記憶しているが」
「いや、そうなんだけど。ってか、今もあんた、相当ザルじゃん」
「知ったような口をきく」
 共に呑んだことなどまだないくせに、と笑い、煙草を灰皿へと押し付けて、幸村は子供を手招き膝の上の雑誌をソファへと退避させた。佐助は揃えた紙束をテーブルの端へと置き、素直に絨毯を踏んでやってくる。裸足が、猫のように慎重に柔らかな毛足を踏んだ。
「わっ、と」
 そろそろとやってくる小さな身体を掴みひょいと膝へと乗せると、佐助は慌てて幸村の肩へと手を掛けて突っぱった。
「何すんの、もう……って、煙草くさいし!」
 顰めた顔を背ける仕種が可笑しくて、幸村はわざと抱き寄せ頬を付けた。ちょっと、と抗議の声が上がる。
「くさいっての! ひげ痛いし!」
「佐助は小さいな。いつになったらでかくなるんだ」
「なってるよ! めきめき背も伸びてます! つか、旦那おっさんみたいだって、それ!」
「おっさんで何が悪い。二十も違えば親子並だ」
 遅れて来たお前が悪い、と真顔で言えば、佐助は情けなく眉を下げ、それからかくりと項垂れて嘆いた。
「あー、昔の純粋だった旦那はどこにいっちゃったの」
「昔のおれは、それほど純粋だったか?」
 怠惰な休日を満喫していたためまだ髭面のままの顔で頬擦りしてやると、佐助はぎゅうぎゅうと小さな手で幸村の額を押し遣った。
「痛いよ!」
「答えよ、佐助。主の命令だ」
「もう主従とかじゃないでしょ!」
「己では、思うがままに生きていただけだがな」
 うう、と呻いて佐助は顔を顰めた。
「いや、ごめん。言葉の綾っていうか」
「お前には純粋に見えていたと言うことだろう。年の差もあったしな、そのせいか」
「つっても、精々四つ五つでしょ。……いや、『真田の旦那』は、怖いひとではあったと思うんだけど……結構酷かったし」
「まあ、現代から見ればな」
「いやいや、あの頃もですけど」
 幸村は軽く眉を上げた。膝に乗る佐助の、細い背を撫でる。カーブを描く背骨もまだ柔らかそうで、幸村は猫のようだとまた思う。
「純粋で酷かったのか。それはまた、救いようのない戦馬鹿だな」
「え、いやあ……まあ、時代的なもんっていうか」
「お前、言っていることが矛盾していないか」
 ええ、と声を上げて、佐助は眉を寄せてうんうんと言い訳を考えているようだった。記憶はほとんど完璧に持っているとは言え、それを扱う脳は未だ発達途上の子供のものだ。同じ年頃の子供から見れば驚くほどに聡明ではあったが、しかし昔の佐助とは比ぶべくもない。昔ばかりでなく、今でも回りくどいことが苦手な幸村が、簡単に言質を取れてしまうほどだ。
 幸村はまだ考えている佐助のふわふわと柔らかな後ろ髪を撫でた。昔よりも色が薄くどちらかというと茶金に思えるが、出会った頃から見れば随分と赤い。大人になるにつれ、もう少し色濃くなっていきそうな気配はある。
 ただ、黒髪にはならぬだろう。今生の佐助の両親は、それぞれに四分の一ずつ、別の国の血が入っているとのことだった。過去世の佐助ももしかすれば混血であったのかもしれなかったが、今更確かめられるものでもない。
「まあ何にしても、今のおれは怖くはないし、酒も煙草もやる」
 佐助はようやく目を上げた。その薄い色の瞳に笑い、幸村はマシュマロじみた白い頬に掌を当てる。
「おまけにお前よりも二十も年上で、お前が成人するまで後十年以上も待たねばならない。それで良いだろう。何かまずいか」
 佐助はかあと顔を赤らめて、どす、と幸村の胸を叩いた。
「んもう、昔の旦那はあんなに純粋だったのに!」
「何を恥ずかしがっているんだ、今更」
「今更も何もねえだろ! 何にもしてないでしょ!」
「当たり前だ。児童に手が出せるか」
「だから、そういうこと言うひとじゃなかったのにって言ってるの!」
 きいきいと喚く佐助に喉を鳴らして笑い、幸村は柔らかな身体を抱き寄せた。煙草くさいよ、と再び文句を言った佐助は、しかし突き放すことはせずに甘える子供そのものの仕種で胸に凭れる。
 幸村はふわふわとした猫っ毛に鼻先を埋めた。陽の光を溜めているのか、少しばかり温かでどことなく埃っぽいようなにおいがする。
 昔の佐助は太陽の匂いなどなかったな、と幸村は胸の裡だけで微笑み、呟いた。

 
 
 
 
 
 
 
20081014
初出:20080912