足下で枝が撓る。
揺れた葉からぱっと昨夜の雨が飛び散るその時には既に次の枝を蹴り、佐助は白々と明け始めた夜の終わりの空気を少しばかり多めに吸った。そろそろ武田領に入る。気を緩める訳にはいかないが、しかしそれでも幾ばくか、緊張が解ける。
佐助は跳ぶ速さを少し弛めた。ふう、と小さく息を吐き、同時に僅かに滲んだ汗に薄らと苦笑する。主に告げた刻限に間に合わせようと駆けに駆けた躯が、疲労に幾らか重く感じた。
まったく働き過ぎだわ、と口の中で呟いて、佐助はふと視界の端を掠めた白に、意識の欠片を向けた。禽だ、と思う。
白い猛禽など、この辺りでは他に見ないな、と顔見知りを思い出した時には爪先が向いていた。
「よ、っと」
枝を掴み勢いを殺し、ひらと下段の枝に飛び降りて、佐助は周囲を窺った。怪しい気配はない。そもそも、人の気配がない。
佐助はそれ以上躊躇わず、地上へと降りた。此の己が気配を感じぬのであれば、余程の手練れがそれと意識しているのでない限り、周囲には誰も居ないということだ。野生の獣ですら、ほとんど居ない。
余程此れが怖ろしいのか、と足下に羽を広げて横たわる猛禽を眺めて、佐助は少しばかり首を傾げた。此れの飼い主が見当たらない。
「おおい、鳥さん。生きてる?」
言葉を解すか否かなど気にもせず声を掛けて、屈み込み腕に抱き上げる。ぐたりとした大梟は重く、しかし一見すると傷はない。柔らかな腹は呼吸に上下し、さっと検分するが骨も翼も、折れてはいないようだ。
目を回して落ちたのか、と首を捻りながら、佐助は空を見上げた。高く繁る枝の一部が、不自然に折れている。
彼の辺りから落ちたな、よく生きていたものだと感心しながら、佐助はもこもことした白い羽毛に手を潜らせて、湿った土を払った。瞬間、うなじを逆撫でた殺気に、反射的に飛び退る。一瞬遅れて、苦無が腐葉土を抉った。
「ちょっと、ご挨拶じゃねえの」
「煩い!! そいつを離せ!!」
肩で息をし、髪を乱して苦無を構えた大梟の飼い主は、夜中探し回ったのだろうか、随分と草臥れている様子だった。
どうやら怪我はないらしい、ならば獣同士の縄張り争いか、と見当を付け、佐助はへらりと笑みを浮かべる。
「まあまあ、兎に角、その物騒なもんしまってさ、」
「お前……! 私の梟に何をした!! 獣を狙うなど、卑怯だぞ!」
「ええ? ちょっと、別に俺様は、」
「お前がその気なら、此方にも考えがある!」
「ちょっとちょっと! 待って、勘弁してよ!」
ぎらりと眦の尖った目が向いた方向に己の烏を認めて、佐助は慌てて大梟を差し出した。
「気絶してるだけだって! 俺様は見付けただけだからね! 何があったかなんてな、知らねえよ!」
ほら早く受け取って、と急かせば、かすがは不審も露わに佐助を見詰め、それからひらと枝から飛び降り大梟を引ったくった。
ったく、と溜息を吐き、佐助は己が烏を呼ぶ。わ、と翼を広げた烏は、ゆっくりと肩へと留まった。ずしりと重さが掛かるが、大梟よりは随分と軽い。
「ね、生きてるでしょ?」
烏の嘴の下を擽りながら、猛禽の検分をしているかすがに言って、佐助は懐から丸薬を取り出した。
「ほれ、気付け薬。嗅がせてやんなよ。飲ませるなよ、鳥にゃ強過ぎる」
「判っている!」
苛々と返し、かすがはまず己が嗅いで、それから梟の鼻先へと擽らせた。此れで毒ならまず己が死ぬだろうとそっと溜息を吐いて、佐助は甲斐甲斐しく獣の手当てをするくのいちを眺めた。しきりにきょろきょろと首を巡らせていた烏が、髪を咥えて引く。
「………何だ、まだ何か用か」
「ええ、冷たいねえ、いつもながらに」
肩を竦め、佐助は空を見上げた。夜明けの空は白々と青く、もう主へ約束した刻限は直ぐだ。
帰らなきゃね、と烏に目で笑い、佐助は踵を返した。
「じゃあね、かすが。自分とこの鳥の管理くらい、しっかりしなさいよ。もう武田よ、此処。俺に落とされても文句は言えないぜ」
「やっぱりお前の仕業か!」
「違うって、物の喩えでしょー」
もう、信用ないなあ、と態と溜息を吐き、腕を差し出すと羽撃いた烏が手首を掴んだ。
「お前も、さっさと帰りなよ」
「さっさと行け」
「はいはい。怖いね、睨まないでよ、傷付くなあ」
へへ、と笑い、羽撃きのままにぐんと高度を上げると、遠くなる地上から微かに声が掛けられた。
ふと見下ろせば、金色は既に大梟を抱えて北へと跳んで居る。しかしすまなかったな、と聞こえたその声は幻聴ではないだろう。
まったく、甘ちゃんなんだから、と緩く笑い、佐助は朝日の中、上田を目指して高度を上げた。
20081014
初出:20080914
芥
虫
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