幸村様〜、と独特の間延びした口調で名を呼ばれ、顔を上げると計った様にひょこと降ってきた逆様の顔に目を覗かれた。軒に足首を掛けてぶら下がった逆様の忍びは、にへぇ、と妙な声を出して笑い、ぴょんこと軒から飛び降りる。
「久しいな。今度は何処へ行っていた?」
「乙女のやることを詮索するなんて、無粋ですよぉ、何処かの影みたい」
「余り悪い事はするなよ」
「してないですう。信用ないなあ、もう」
 ぷいとむくれて見せた様に小さく笑えば、くのいちは直ぐに気を取り直して、縁側に座る幸村の前に立ち、首を傾げた。
「幸村様、疲れてる?」
「いや、近頃はすっかり、長閑なものだ」
「ご主人様はあ、ちょっと老けたんじゃないですか〜?」
 にゃは、と笑う忍びに幸村は苦笑して、懐手に腕を組んだ。
「年を経れば相応に老ける。変わらぬそなたがおかしいのだ」
「あたし〜、狐なんだもん」
 こんこん、と手首を返して鳴き真似をして、戯けた仕種でくのいちはくるりとその場で回って見せた。久々に見るというのに、やはりあの頃と、寸分変わりない姿に見える。
 いつまでも、あどけない少女のままの。
「この頃は、何をしているのだ?」
「んんーと、色々、お仕事とかあ」
「盗みや集りをしている訳ではないだろうな?」
「してないってばあ! まっ、お仕事なら、盗みだってしますけど」
「そなたを必要とする者は、未だいるか」
「いますよお、そりゃ。幸村様も、何かお願いがあったら、遠慮せずにどおぞ〜。もっちろん、お金は貰うけどね」
「そうだな、何かあれば」
「優遇しますぜえ、旦那あ」
 にゃは、と明け透けに笑い、落ち着き無くひょこひょこと躯を揺らし、子供の仕種で道化の様な言葉を操り、けれどくのいちは、後悔しているのか、とは訊かない。
 徳川を倒し、天下人と呼ばれる様になってから一度も、皮肉を常とする此の忍びは、人知れず姿を消したその時でさえ、其れを指摘してはいかなかった。
 国にとって、民にとっては、もしかすれば徳川の世の方が、心地の良いものであったのかも知れない。現に天下人とは名ばかりで、豊臣からの口出しは今でも止まず、臣の少ない幸村にはそれを完全に退ける手立ては無い。しかし未だ傀儡の気配の抜けぬ秀頼に、ならば貴方がと座を譲る訳にもいかない。
 老けた、と言うなら老けたのだろう。死を覚悟して思い詰め、意地と矜持だけでただ一人徳川本陣へと突撃したあの時ですら、こんな実態の無い疲労に苛まれることはなかった。
 此処が、目指したかった場所だったろうか、とふと思考を飛ばし、僅かに遠い目になった隙を突く様に、音もなく縁側に飛び乗ったくのいちが、土足を咎める間もなくしゃがみ込み、ぽんぽん、と幸村の頭を撫でた。
「よし、よし」
 目を丸くして見詰めると、にひゃ、と笑ったくのいちは、くると蜻蛉を切って庭へと降り立ち、ひらと手を振り身を返す。
「じゃあね〜、幸村様〜」
 頑張ってねえ、と巫山戯た響きで言い置いて、軽く膝が曲がったかと思えばもういない。
 幸村は撫でられた頭を触り、それからふと小さく苦笑して、ああ、と誰もいない庭へと囁いた。

 
 
 
 
 
 
 
20071203
初出:20070831