黒々とした空、暗雲の合間を稲妻が真白に走る。そろそろ大粒の雨でも来そうな気配で、戦の終わった戦場は慌ただしく、凱旋の支度を進めていた。
そのざわざわと騒がしい空気の中、腕を組んでじっと暗雲を見上げていた主が、ふいに、佐助、と名を呼んだ。
「何です」
近付き、膝を落とすとその膝が地に付く前に、忍装束の襟元を掴まれてぐいと持ち上げられた。
何、と言う間も無くぐるりと躯を返されて、がんと傍らの木の幹に押し付けられた。無体を問う間もやはり与えられずにむっと血と汗の臭う躯が密着して、装束の下に掌が這う。
「ちょ、ちょっと、ちょっ……旦那っ、痛えよ!」
不埒な動きをする手首をどうにか掴もうと躍起になれば耳許に顔が寄せられ、ぐわと開いた口が耳に噛み付いた。其のまま噛み千切られるのではと思う程に歯を立てられて、佐助は渾身で背後の獣を振り払う。殺気を感じたか、今の今まで執着していた躯は猫手の先が剥き出しの腹を掻く前に飛び退った。
「佐助」
「ちょっと待てって、言ってんだろ! 血ぃ、出た!」
酷え、と嘆いてつと額当てと膚の合間を滑り落ちた血を拭う。止めどなくつるつると落ちる血に、本当に噛み千切るつもりだったのかと佐助は呆れた息を洩らした。
「佐助」
深く熱い息を軽く弾ませ、戦前の様にぎらぎらと目を光らせた主は、此度の戦、結局最後の最後まで出陣を許されなかった。最早勝利は目前、と言う頃になって漸く、滾る血を押さえきれずにいたその目に何を感じたか、行け、と命じた信玄に真田隊も置いて行く勢いで単騎駆けた幸村を、執拗な追撃を強引に終わらせて引き戻したのは佐助だ。欲求不満は重々承知しているし、こうなるだろう事は予測はしていた。
だが、ここはまだ戦場だ。もう直雨も来るだろう。何より今から屋敷へ戻ろうと言う時だ。いつ誰が、準備が整ったと迎えに来るかも判らない。
「屋敷に戻るまで待って下さいよ」
「佐助」
「駄目です。大体汚えって。あんたあれだけしか戦場にいなかったのに、頭の天辺から血塗れじゃねえか。そんな血の臭いぷんぷんさせたお人となんかしたかねえよ、夢見が悪くなっちまう」
何が可笑しかったのか、ふん、と鼻を鳴らした幸村は、軽く唇を歪めて気を落とした。まだ身の裡には燻る熱は感じるが、少なくとも全身から、それを立ち上らせる事を止めた。
「今更」
踵を返し、ざくざくと大股で去りながら、幸村は続けた。
「お主も同類であろうが」
はあ、と半眼で嘆息して、佐助は肩を竦めた。
「言われんでも」
でもそれとこれは別のことです、とどんどんと遠離って行く主を追い掛けながら言って、佐助はぽん、と幹に押し付けられた際に汚れた装束を払った。
一滴の血の染みもない其れは、獣に噛まれた傷からの己の血を吸って、泥の様な野草の様な、独特の忍びの血の臭いがした。
20070402
初出:20070510
芥
虫
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