勘助が戻らぬ、と腕を組みじっと地平を睨む虎に、幸村は黙って血にまみれた槍を下ろした。顔を拭うが、汚れた袖では拭えた気はしない。頭から爪先まで真っ赤に染まった幸村に固まっていた此れが初陣の少年が、仕種に気付いたかさっと立ち上がり、ばたばたと陣幕の奥へと駆けた。手拭いを、と兵へと命じている声がする。濡らして持つつもりだろう。小姓上がりだけあって、成る程躾が行き届いている。
 しかし今未だ此の気を鎮める訳には行かないと、幸村は再度の出陣の命を、無言のまま待った。軍師の隊には、今日は佐助が守りに付いた筈だ。その己が忍びも戻ってはいない。伝令も、未だだ。
 ならば苦戦を強いられ身動きを取れずにいる可能性もある。どちらも死んだなら、誰かが使いに走るだろう。人でなくとも、佐助ならば烏を飛ばす事ぐらいはしそうなものだ。
 ならば援軍を差し向けねばなるまい、と幸村は己が行くつもりで下げた槍をぐっと握った。血糊で滑る。籠手は替えて出ねばなるまい。
 しかし、幸村の内心を余所に、信玄は無言だった。長い沈黙に、急がねば間に合わぬと幸村は焦れる。
「お館様! 今一度某が、」
「及ばぬ」
「なれど!!」
「まあ待て───幸村、」
 ちら、と顧みた半面が、薄く笑みを乗せた。幸村は口を噤む。信玄は腕を解き、ふと陣幕へと向き直ると、ぐいと引いて一枚落とした。
「───佐助!!」
「へへ、」
 片目の軍師と肩を貸し合い、明るい色の髪をへたらせて泥だらけの顔をした忍びは笑った。
「遅くなり申した」
「否、……よくぞ戻った。佐助も」
「すんません、大将。ちっとばかりしくじって」
「何、首を三つも四つも獲って参ったのだ。恥じる事はない」
「功に逸ったか、勘助」
「滅相も御座いませぬ。戻れぬものなら少しでもと、そう思ったまで」
「上が減れば、下は崩れるってね、片目の旦那が言うもんだから」
「佐助殿には、よう働いて頂いた」
 肩を外せばずる、と座り込んだのは佐助の方だった。勘助もまた軽くはない怪我を負ってはいたが、しかし一人でなら、こうも時を掛けずに戻れただろう。
 無言で遣り取りを眺めていた幸村は、ふとまろい笑みを浮かべたままの忍びに目を向けられ、表情を作らぬまま歩み寄った。
「旦那も、悪いね。遅くなっちまって、結局そっちに救援にも……」
 振り上げた手に、佐助が瞬く間も与えず鈍く分厚い音を立てて頬を張れば、座り込んだ躯が転げる。
「佐助殿!」
 慌てて屈み込んだ勘助の手に起こされた忍びの口の端が切れ、続いてつと鼻血が零れた。
「いって……、」
「此の、馬鹿者が!!」
 咎める目を向け掛けた軍師が黙り、眉一つ動かさずに眺めていた信玄をちらと見遣ると、主の傍観の構えに倣い、そっと一歩退いた。幸村は佐助に視線を注いだまま、眉を吊り上げ拳をきつく握る。
「忍びの分際で軍師殿のお手を煩わし、かつお命を危険に晒す等、恥を知れ、佐助!!」
「は、」
 佐助はぎこちなく膝を折り、両手を湿った地面へと付け深々と頭を下げた。
「申し訳も無く」
「二度とするな。身を弁えよ」
「は」
 ざり、と額で地を擦り、下がれと言えば佐助は忍びらしくも無い動きで立ち上がり、けれど音だけは残さずに、ゆるりと陣幕の裏の薄暗がりへと身を引いた。それだけでもう、気配が絶える。
 幸村は息を吐き、それから信玄と勘助へと向き直った。深く頭を垂れる。
「お見苦しい所を晒し申しました。お許し下され、お館様」
「何、構わぬ」
「軍師殿も、申し訳ござらぬ」
「否、某は何もしてはおらぬ故。それより、佐助殿の怪我は軽くは無い。労っておやりなされ」
「は。……軍師殿」
 勘助は白髪交じりの眉を軽く上げた。幸村はもう一度頭を下げる。
「彼れを連れ帰って下さった事、此の幸村、深く感謝致しております」
 信玄とその軍師は顔を見合わせ、それからくつくつと喉を鳴らした。信玄の大きな手が、どんと背を張る。
「しゃんとせい、幸村! 先程の意気は何処へいった」
「は……はっ、」
「ほれ、もう下がれ。佐助もしょげておる事だろう。顔を見せて、さっさと退陣の支度をせんか」
「は、はい! で、では失礼致しまする!」
 くると踵を返してばたばたと走り出せば、先程の小姓が濡れた手拭いを持って現れた所に鉢合わせした。踏鞴を踏んで立ち止まり、幸村はその手拭いを掴む。
「すまぬ、頂戴する!」
「あ、は、はい、」
「戦は終わりだ! そなたも戻る準備をせよ!」
 叫んで後は返事を聞かず、幸村は真田隊の陣幕を目指して駆けた。
 背中に、楽しげに笑う師の声が掛けられた気がした。

 
 
 
 
 
 
 
20080306
初出:20080108