「あっれえ? 若頭じゃないか」
 インターホンに答えてドアを開けてやると、ここ一年でめきめきと背の伸びた長身の高校生男子がぱちくりと眼を瞬かせた。
 若頭はよせと低く言って通してやると、遠慮もなく「お邪魔しまーす」と軽く言って慶次は家主不在の部屋へと上がり込む。少し高めの上がり框に足を掛ければ、慶次の目線は小十郎よりも上だ。中背の政宗と並べば結構な身長差だろう。
「政宗は?」
「まだ帰ってらっしゃらねえよ」
「えー。今日は早いって言ってたのに」
 学年は違えど同じ学校に通うのだ、昼でも一緒に食ったのだろうと考えて、それからそう言えばそんなことをしなくてもメールや電話という便利なものが世の中にはあるのだったと思い出す。携帯電話は仕事柄必需品だが、あまり個人的なことで使用することがないため失念しがちだ。
 茶を淹れてやるから座っていろと言うと、煎茶がいいと遠慮なしに注文が飛ぶ。それに苦笑しながら小十郎はキッチンへと立った。カウンター越しにちらりとリビングを見遣れば、慶次は床に座り込み勝手にテレビを付けてなにやら弄っている。ゲームでもするつもりだろう。
 まったく物怖じしないガキだとちらりと苦笑して、それから何を考えているか解らんなと独りごちた。
 
 慶次との出会いは最悪であった。
 
 別に慶次が最悪であったわけではない。慶次にとっては最低最悪のバッドタイミングであったのかもしれないが、あの最悪の場に居合わせたのは悪いことではなかったと小十郎は思う。だが最悪は最悪だ。
 己が世話役を務める政宗は、割に女遊びはするほうだった。
 一度に大人数と遊び歩くことはないが、一人の相手と付き合う期間が短い。身体目当てだろうと罵られることも少なくないようで、決してそうした若者ではないことを知っている小十郎としては、気持ちの表し方があまり上手くない、不器用な政宗に少々気を揉んでいた。
 己が気にしたところでどうしようもないのだが、気に入っていた相手と上手くいかず別れるたび、静かに傷付く政宗に胸の奥が締め付けられるような息苦しさを覚えた。余り、愛情を受けて育った子供ではない。愛した相手と長く上手く付き合えないことを、そのために自分に原因があるのだと考えているとしたら、と思うと小さな頃のように抱きしめて慰めてやりたくなったものだった。
 だが、この少年はどうだろう、と小十郎は湯を沸かしながら考える。
 もう一年にもなろうとしている。二人が忘れていたとしても、小十郎はあの日のことは忘れられない。
 日付も、窓から差し込む夕陽が恐ろしく赤くかったことも、その赤々しい光を半身に浴びた政宗が、半端に衣服を付け胡座を掻いたままわしわしと髪を掻き混ぜ気怠そうにこちらを見て、よお、小十郎、と疲れ果てたような声で名を呼んだことも、その主よりも少し離れた場所にこちらも衣服を乱したまま丸くなって震えていた子供も、すべて瞼を閉じれば浮いてくる。
 しかし情景は浮くのに、その後一言二言かわした、恐らく間抜けだったろう会話の内容は朧気だ。たしか、そのガキは誰だ、何をなさったのか、と、そんなふうに尋ねた気がする。政宗の答えは率直で、中等部のガキを引きずり込んで犯してやったとそう言ったものだから、瞬間理性がふつりと切れた。
 気が付いたときには腰にしがみついた子供にやめろ、死んじまうよと喚かれて、それに黙ってろこういう手合いは身体に叩き込むのが一番だとかなんとか怒鳴りつけた気がする。
 他の者に聞かれれば切腹ものの気もするが、組長直々に政宗の世話を任されて以来、政宗が悪さをするたび幾度となく殴り飛ばしてきていたから、無抵抗ながらも確実に急所は庇っている政宗にしても慣れたものだ。
 政宗が中学に入ってしばらくしてからはこういうことは少なくなっていたが、実に久々に切れた。まさか政宗が、この際性別は置いておくにしても力無い者を屈服させ暴行するなど考えたこともなかった。そう言った面では理性が勝る、ある意味淡白な若者だと思っていたのだが。
 そんなことを考えながらなおも振り上げた足を、小十郎は続く慶次の言葉にぴたりと止めた。
「………は?」
 そのとき自分は、物凄く間抜けな顔をしていたに違いないと思う。呻いた政宗が、隻眼を軽く瞠ったのが視界の隅で見て取れた。
「だから」
 必死の形相で、子供は繰り返した。
「政宗とはちゃんと付き合ってるから、レイプじゃないんだ!」
 
 このガキ、頭大丈夫か。
 
 本気で心配した自分は、別におかしくはない、と思う。
 
 
 
「……なあ政宗、病院行こう」
 病院に行くかと言えば真っ青な顔で拒否されて、ならせめて風呂に入れと用意して戻ると、薄く扉の開いた向こうから、気遣い気な声が聞こえた。そっと覗くと、起き上がり背を丸めて呻いている政宗の横に、身体が痛むのかぎこちなく座り込んだガキがいた。犯した相手を怖がりもしない姿に小十郎は眼を細める。
 慶次は涙の跡で汚れた顔を不安げに顰め、赤くなった眼で政宗を伺っている。なあ、と尋ねる声は痛々しく割れていて、どれだけ嫌がって悲鳴を上げたのかと小十郎は眉を顰めた。
 少し殴り足りなかったかもしれない、と物騒なことを考えていると、政宗が「へっ、」と小さく嗤った。
「いいから、テメエ、さっさと風呂入って帰れ。そんで二度と近付くな」
「でも、政宗、そうしたらまたさっきの奴に殴られるんじゃないのか」
「あんた、喧嘩だなんだと賑やかなくせに、あいつが怖いのか?」
 からかうような声色に、慶次は真摯な顔で今のは喧嘩じゃないよ、ときっぱりと返した。
「今のはただの暴力だ」
 ちらりと、冷えた色の隻眼が慶次を見る。
「因果応報」
「へ?」
「お前に謂われのない暴力を振るったのは俺が先だ。小十郎がキレるのも道理ってやつだ。あいつは道理ってのが好きでな」
 う、と言葉に詰まり、うろうろと視線を彷徨わせる慶次に薄く嗤い、政宗はその頬に指を伸ばした。一瞬竦んだ慶次が、ゆるゆると顔の輪郭を辿る指に、物言いたげに政宗を見ている。
 なんともまあ愛しそうな仕種だろう、と小十郎は呆れた。どうにもこの若者は、慶次に惚れているらしい。情欲だけの対象にする仕種には思えなかった。
 となれば、出来るだけ手に入れる方向で協力してやりたいと思う。だが場の流れ的に、どうも政宗はこのまま自らこの子供を突き放すつもりのようだった。無理もない。だがならば何のためにわざわざ家に上げて暴行したのかが解らない。
 情動に突き動かされ稀に考えも及ばないことをしでかす若者ではあるが、それでも政宗は、どれほど熱に浮かされていても、一筋の理性は必ず残す。
 その理性が何を考えていたのか読み取ろうと、小十郎はじっと政宗の表情を見詰めた。政宗は気付いているのかいないのか、ただ慶次を見詰めてふっと視線を緩ませた。
「………まあ、いいから、帰れ。俺に拘わるな。おっかねえ若頭もくっついて回ってるしよ」
「俺まだあんたにごめんって言われてないよ」
「Huhn? なんで謝る必要があるんだ」
「なんでって、ええ、なんだよ、それ本気で言ってんのかい?」
 跳ね上げた声は枯れていたが、呆れた色はありありと感じ取れた。慶次は溜息を吐き、拗ねたように唇を尖らせる。
「暴力振るったとか言ったくせに」
「悪いことをしたとは思ってねえし、後悔もしてねえからな」
 慶次は口を閉ざして困り顔で政宗を見ている。
「泣けっつったろ」
 言って、大きな手が涙の跡を拭うように子供の顔を擦った。うわあと言って顔を顰めた慶次は、次にはぱちくりと眼を瞬かせて、ぽかんと口を開ける。愛嬌のある人好きのする顔をしているなと小十郎は思った。こちら側、世の中の裏側の世界とは、本来ならばあまり拘わることのない人種だろう。
「少しはすっきりしたか?」
「するわけないだろ。大体、泣きたいなんて言ってないぞ、俺」
「俺が泣かせたかったんだよ。ガキのくせに変な顔して笑いやがって、気持ち悪ぃ」
「ええ、なんだよそれ。言い掛かりじゃないか」
「大体、テメエのそのねねってのは、秀吉の女だったんだろ。お前のもんでもないのにいつまでも愚図愚図言ってんじゃねえよ」
「別にねねが誰と付き合ってたかなんて関係ない。俺がねねを好きなだけだ」
「だったら生きてる間にかっさらっちまえば良かったんだ。今更愚図るんじゃねえ」
 吐き捨てるような言葉に、慶次がふと悲しそうな笑みを浮かべた。年に似合わないその顔に、政宗が苦々しく隻眼を歪めてぎゅうと頬をつまむ。
「いっ、痛い痛い!」
「その顔をやめろっつってんだよ!」
「ま、政宗には関係ないだろ!」
「むかつくんだよ!」
 一頻り苛めて気が済んだのか、政宗は唐突にぽいと慶次を放った。痛い痛いと言いながら頬をさすり、慶次は上目遣いに政宗を見る。
「……でもさあ、俺さっき、あんたと付き合ってるって言っちゃったよ」
「そんな口から出任せ、小十郎が信じるとでも思ってんのか」
「けど、ほんとにしとけばあんたも殴られなくて済むんじゃないか?」
「Huhn? 何言ってんだあんた」
「だから、ちょっとの間でも付き合ってみないかって。楽しいことでやなこと上書きすればいい」
「やなことぉ?」
 慶次はむくれた。
「俺、何回もやめろって言ったよ」
「Hum! なかなか良さそうにしてたじゃねえか」
「何言ってんだ、ばかじゃないのか。俺キスだって初めてだったのに」
「………は?」
「俺、誰とも付き合ったことないし」
「───マジかよ!!」
 マジだよ、とむくれ顔のまま言った慶次をしばし眺め、ぽかんとしていた政宗はゆるゆると溜息を吐いた。
「お前、恋がどうのと騒ぐくせに、なんだそりゃ。童貞か」
「当たり前だろ。だってねねが好きなんだから」
「今時好きな女としかやりたくねえって? 気持ち悪いなあんた」
「気持ち悪いって言うな! それにまだ俺中学なんだぞ! そんなことしたらまつ姉にぶっとばされるよ!」
「Ah、悪かった、喚くなよBoy」
 わしわしと慶次の頭を撫でて、腫れた顔で政宗はいびつに笑った。
「………まあ、んじゃあ、俺もちょうど別れたばかりだしな。付き合ってみるか。後になってやっぱり嫌だとか言うなよ」
「嫌になったら別れるから、いいよ」
「そんなに簡単に別れてやるかよ」
 覚悟しろ、と嗤った政宗に慶次が引き攣る。その顔に笑いながら、けれど動きばかりはいっそ慎重なほどに優しく手を伸ばし出来立ての恋人を抱き寄せて、その肩越しにちらりと鋭い色の隻眼がこちらを見た。やはり気付いていた。
 小十郎は無言で頷き、もう湯が張った頃合いの風呂へと足音を忍ばせて戻った。
 
 
 
「片倉さん、お湯!」
 しゅんしゅんと湯気を噴き上げるケトルにはっと顔を上げるのと、リビングから指摘が飛ぶのが同時だった。
「政宗さあ、何時くらいに帰るか聞いてない?」
 小十郎にはよく解らないゲームをしながら、画面に顔を向けている慶次が言う。さあなと答えて、小十郎は茶筒を開けた。
「だが、夕飯までには戻るはずだぜ。それまで俺とじゃ気詰まりか?」
「ええ? そんなこと全然ないよ」
 くり、と笑顔を向けて慶次は高く結い上げた逢髪を揺らした。
「政宗といるより楽かもな。俺、片倉さん好きだよ」
「………そうか」
 主が聞けば微妙な顔をしそうな告白だと考えながら、小十郎はすぐにテレビへと顔を戻してしまった少年の、揺れる髪に薄く眼を細めた。やはり、何を考えているか解らない。
 この年頃の手合いはやっかいだなと口の中で呟いて、小十郎は急須に茶葉を入れた。

 
 
 
 
 
 
 
20061226
初出:20061213