「だあッ! もう鬱陶しい! Shut up!」
 ごろごろと腹に懐いている大型犬の、一見微笑ましい態度に政宗は苛々と怒鳴りつけた。胴に腕を巻き付けていた慶次はもぞりと動いて前髪の奥から上目遣いに政宗を見上げる。むくれた顔がひどく不満げだ。
「なんだよ、泣きたいときは俺のとこで泣けって言ったの政宗だろ」
「だからってしつっけえんだよテメエはよ! ねね、ねねってそんなに女が良いなら紹介してやっからがんがん盛って来いこの犬野郎!」
 さあっと青ざめた顔に、一瞬置いてカッと赤みが上る。ねねの名に反応してその後の暴言は聞いていないなと冷静にその怒りの様を見て、政宗はぐっと起き上がろうとした慶次の肩を力任せに押さえ付けた。
「Sorry、失言だ」
「失言って、わざとだろ……!」
「そんなことはねえよ。俺があんたにそんなひどいことを言うと思うか?」
 不審げに見た眼が「言うだろう」と言っている。政宗は薄く笑みを閃かせ、ぽんぽんと赤茶掛かる黒髪を撫でた。
「短気を起こして悪かった。いいから、気が済むまで泣けよ」
「………何か騙されてる気がするんだよな、政宗の猫撫で声って」
 ぶつぶつと文句を言いながらも大人しく腿の上に戻り再び腹に懐いた慶次は、けれど今度はなにも言わずにただ眼を閉じた。その長い睫の合間にちらりと涙の粒を見て、よくもまあ自分の女のわけでもない、何年も前に死んだ女のために泣けるものだと政宗は感心する。
 実際、今日は別に命日でもなんでもないのだ。慶次は月が欠けたと言ってはねねと俯き、猫が逃げたと言ってはねねと泣く。初恋の思い出に直結するもの全てがこの少年の地雷だ。
 その地雷を踏むたび、まだガキのくせをして達観したようなふりで寂しく微笑む様に苛立って、散々に泣かせてやったのが、もう一年近くも前になるだろうか。それからの済し崩し的な付き合いなものだから、まあこの少年は別に心底政宗に惚れているわけではないだろう。政宗にしても、これとたとえば幼児の頃から共にいる小十郎と比べれば、断然小十郎のほうが大切で、愛している。
 大体にして、泣かせてやったのも完全に無理矢理で、訴えられれば犯罪者間違いなしだなとは事の最中にもぼんやりと思ったものだった。その証拠に事後も露わの現場に何も知らずにやって来た小十郎に、政宗は男の風上にも置けぬと死ぬかと思うほど殴られ蹴られた。小十郎をそこまで沸騰させたのも久々だったが慶次のほうが怯えて止めに入る始末で、結局この少年にしてみればそこからして政宗とその世話役に揃って騙された気分だったのではないだろうか。
 散々恋だなんだと賑やかでいつでもにこにこ、誰とでも仲良しのお祭り男だったからどれほどのものかと思っていれば、驚いたことに慶次はキスの経験すらなかった。当然男と関係したこともない。
 当時はまだ15歳だったのだから遅いというわけではないが、しかしこうなった以上は一生童貞でいてもらうのもまあ一興かと政宗は無責任に思う。責任を感じているわけではまったくないが、己の所有物となったものをみすみす他の人間にくれてやる気はない。
「なあなあ、政宗。若頭は今日は来るのかい?」
 今泣いた烏がもう笑う。
 いつの間にか腹から離れていた慶次が、腿にごろりと頭を乗せたまま政宗を見上げていた。濡れていた飴色の眼はもうきらきらと、いつもの無邪気な光を乗せている。
「Ah……今日は来ねえな。仕事があるはずだ」
「じゃあ、あんた飯どうするんだ?」
「作ってもいいが、ろくな食材がねえな。どっかに食いに出るか。何が食べたい」
「え、奢ってくれんのかい?」
「貧乏人から金は取らねえよ」
 実際慶次は金欠だ。家にあまり寄り付かずに出歩き遊び回るのに、バイトをしていないのだ。
 勿論前はしていたのだが、ただでさえ交友関係が広く出歩きがちな慶次の空き時間を作るのに、政宗が辞めさせてしまった。そうでもしなければ泣きにも来ないのだから仕方がない。慶次は声高に不満を示しながらも素直に時間を空けて、特に何の見返りも求めていなかったようなのだが政宗はその分の面倒くらいは見るつもりだった。
「政宗の金だって家の金だろー」
「ばあか、小遣いは少ねえよ」
「……じゃあ、いい。俺の分くらい出す」
「Ha! だから馬鹿だってんだ。金は増やしてこそだぜ」
「うわ、なに、ギャンブル!?」
「そんなもんに手ぇ出したら小十郎に殺されるだろ。株だよ株」
 うわあすげえなあ、としきりに感心をして慶次は笑った。
「じゃあごちそうになろうかな」
「おう、そうしろ」
 のそ、と起き上がった慶次が、ちゅっと可愛らしい音を立ててキスをした。たまにどこの乙女だと言いたくなるような気恥ずかしいことを、慶次は真顔でやってのける。
「なんだ、ヤりてえのか?」
「違う! お礼だろお礼」
「キスいっこくらいじゃあなあ」
「政宗って結構デリカシーないよな」
 むくれてしまった慶次は再びごろんと横になり、それでも政宗から離れず腿の上に戻った。懐いた大型犬のようだ。政宗は眼を閉じたその横顔を見下ろしながら、耳許の髪を擽るように梳いた。
 そういえば、今週はこれでもう会うのも3回目だ、と何気なく思う。いつでもスケジュールいっぱいの人気者の時間を、週の半分拘束できるなど、済し崩しに付き合い始めた当初は考えられなかったことだ。
「………なあ、慶次」
 政宗は身を屈め、顔を近付けて囁いた。
「お前、もしかして俺のことが好きか」
 慶次は顔を上向け、素直な眼をぱちくりと瞬かせた。
「好きじゃなきゃあ、ここに来ないよ」
 ああ、そうかそうだな、と答えて、我ながら間抜けな問いだったと政宗は肩を竦めて目の前に来た唇に、緩く歯を立て噛み付いた。

 
 
 
 
 
 
 
20061226
初出:20061213