20061214〜1225まで設置

 
 
 
 
 
 
 あんたうちに来ないか、幾ら貰ってんだ、倍出すぜ、と露骨に引き抜きを掛けられて、佐助は思わず声を上げて笑った。
「倍かあ! そりゃ魅力的なお誘いだけど、あんた忍びってもんを判ってないね」
「Huhn? どういうこった」
「忍びってのは生きた情報だろ? そんなもんをほいほい引き渡せるわけないじゃないの。忍びは裏切れば死なの。いくら給料が良くたって、一生うちの忍隊と里に追われるなんて、割に合わないよ。悪いけど、あんたんとこの連中じゃあ、相手にならないしね」
 こんなにほいほい敵国の忍びを大将のとこまで通すんじゃあ、と肩を竦めればそんなもんはどうにでもすると薄い笑みを浮かべられた。
「どうにでもって、無理だろ」
「いいや、搦め手なんてのは幾らでもある」
「………いやいやいや、仮にそれが出来たとしたって、俺はあんたんとこには来ないよ」
「Why?」
「何でだってこと? だってほら、俺はあんたとは気が合わないし、第一俺様には主がいるからさ」
「Master……誰だ、甲斐の虎か」
「巫山戯てんのかよ。いやそりゃあ大将だって主には違いないけど、ほらほら、あれよ、甲斐の赤鬼、あんたの好敵手」
 だから無理だよ、と言えば、雷竜は闇夜の中、薄ら白い歯を覗かせてにいと唇を吊り上げ嗤った。
 ぞっと嫌な感触がして、佐助は僅か、足の裏の半分だけ後退り、重心を落とす。途端「逃げるな」と低く重い声が飛んだ。
 決して荒げたわけではないのに足が重くなった気がして、これは本物だ、と佐助は思う。大勢の人間を、死をも厭わないと陶酔させて、そうして従えている頭領だ。暗がりにどんよりと光る隻眼に、蜷局を巻いた竜を想像して首筋がちりちりとした。
「真田の忍びだと、」
「そうそう」
「そんな括りがなければ真田の元に居れないか」
 何か適当な相槌を打とうとしていた喉が詰まった。佐助は一瞬視線を彷徨わせ、それから変わらぬ姿勢でいる政宗を見て、顔を歪める。
「……いや、いやいや、そんなことはないよ。仕えるのはあの人だけだって決めたのは俺なわけで、」
「But、あいつがあんたを要らねえと言やあ、あんたはあんたの決心なんざさておいて、あいつの元を去るしかねえ」
「旦那はそんなこと言わないよ」
「佐助は某の忍びだ、からか」
 それも括りだなと酷薄に嗤う様に胃がむかむかと掻き回されるような気がした。うんざりとする。
 そんな、ことは、判っているのだ、それをわざわざ、言葉に縋っていると見せ付けて本当は後ろを振り返ったって誰も居ないと何も無いと何も持っていないのだと、
「………あんた嫌な奴だね。やっぱ気ィ合わないわ」
「Ha、そうかよ。だが諦める気はねえぜ。今、真田に背中向けられた時のことを考えただろ? 平気そうじゃねえか」
 嗚呼平気だよと胸の裡で喚いて、佐助はいびつに嗤った。嗚呼しょうがないねえこれからどうしようかなんてちょっと困って後は全然平気だなんてそんなこと、そんなことを、
「いやあ、旦那に捨てられたら俺様生きてけないかな。理由が無くなっちゃうからね」
「理由なんてもんが無くても飯食って糞して寝てりゃあ生きるがな」
「なんて投げ遣りな言い方だろう、独眼竜ともあろうお方が」
「だが理由が欲しい風をしたいあんたの為に、いつでも、あんたの為の杯は用意しとくぜ?」
 こん、と小さく音がして、闇に白く浮かび上がる指の先に、朱塗りの杯が掴まれているのを佐助は見た。
 
 わざわざ、よりによって、朱の。
 
「───絶対あんたのとこには来ねえけど、」
「けど?」
 佐助はへへえ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
「俺の為の杯なら、黒塗りにしといてよ」
 浮かべた筈の笑みは笑みになっていなくて唯顔が歪んだだけで、嗚呼こんな風に笑えなくなるくらいには平気じゃないじゃないかと佐助は自分を慰めた。
 後の竜の顔など、見もせずに立ち去ったものだから知る由もないが、けたたましい笑い声が追って来たような気がしたのは多分気の所為ではない。
 
 質の悪い悪竜の毒息に当てられた。
 
 佐助はうんざりとして口元を装束の襟に埋め、憮然としたまま木々の上を跳んだ。

 
 
毒蛇の腮

何者でも無くたって生きていかれるなんて知ってる。(からわざわざ言うな!)