20061210〜1225まで設置

 
 
 
 
 
 
 猛暑が去り、まだ秋の浅い時期に出て行ったらしい忍びは未だ帰って来ない。
 
 信玄から佐助に少々日の掛かる仕事を頼みたいと打診はあった。戦の予定は今の所なかったし武田の武将は甲斐に揃い甲斐の守りは万全だ。上田の守りも己がいる。
 だから二つ返事で了承をした。朝に会ったきりだった忍びは、火急の用であったのか幸村に挨拶に来る事なく出たようだった。
 
 ごろりと寝返りを打つ。朝寝を楽しむような怠惰な気質は持ち合わせていないが、未だ起きるには早過ぎる。家人も皆寝静まっているだろう。厨だけ、皆の朝食の為にそろそろ誰かが起き出して、竈に火を入れ始める頃だろうか。
 そんな時間に主である自分が起き出しては迷惑だ。そう、元服が済んだばかりの頃に言い含めたのは帰らない忍びだ。
 枕から頭を外して腕枕をし、顔半分まで布団に潜ったまま丸まる。ひんやりとした空気が青い。酷く静かだ。
 幸村は目を閉じた。
 信玄に、佐助は未だ戻りませぬか、と幾度か打診は、した。いらえはいつも同じで、けれど先日甲斐に赴いた時に尋ねれば、同じ言葉でもその顔は曇り、真っ直ぐ幸村を射抜く目は何処か悲しげにも思えた。
 いつもならば佐助を信じよ、直に戻ろうぞ、と声高に断じてくれる信玄に応じる所だが、その日は言い募ることなくそうですかと頷いて幸村は辞した。何処か物足りなさそうな顔をして見せた敬愛する主君の、童心に見せ掛けた気遣いに感謝はすれど、答えられる気持ちでもなかった。
 思うよりも消沈している、と幸村は冬でも冷えを知らない足の指を擦り合わせた。
 
 先日、目を血走らせ酷く青い顔をした前田慶次が、忍びは何処だと掴みかかる勢いで乗り込んで来た。風来坊が先遣りもなく乗り込んで来たことは初めてではないし、そもそもそうなるのではないかとの予感はあったから、幸村は静かに今はおらぬと応じた。
 怒りに我を忘れたと言うよりも悲しみが勝るような形相で一頻り暴れた慶次をいなしてやりながら、まるで泣いて駄々を捏ねる子供のようだと幸村は思った。
 遊びに来た、喧嘩に来たと乗り込んで来たときには酷く余裕のある態度で、一見大味に見える技も、手合わせとなれば型が無い分先が読めず大層苦戦したものだったのに、駄々を捏ねる慶次にはその独特の大らかさが欠けていた。
 散々に暴れて倒れた風来坊を介抱してやり話を聞けば、ただ、叔父夫婦が死んだのだと、それだけだと言った。乱世となれば仕方のないことだが、それを言っても慶次は聞くまい。漸く落ち着いた疳の虫が、再び疼くだけのことだ。
 だからそうかと頷いて、幸村は少し前に前田が何者かに強襲を受けたと聞いていたことも、其れが武田か上杉の手の者の仕業ではないかと言われていると知っていたことも言わず、ならばお主が前田を守るしかあるまいと諭し、慶次に酷く苦い顔をさせた。
 
 もう少し休んで行けと言ったのに、加賀の様子を見てから京に戻るからと痛む躯を起こした慶次は帰り際、今更のように、帰っていないのか、と尋ねた。
 幸村が頷くと、眉を下げた気遣い気な人の好い顔をして、けれど叔父夫婦が死んでもう三月も経つのだと少し俯いたので、幸村はただそうかと答えた。
 
 どさどさ、と、耳に痛いほどの静寂の中、唐突に音がした。
 幸村は思わず躯を起こし、白い息を吐きながら布団から抜け出し障子を開けた。暗い縁側を閉じている雨戸を、がたがたと鳴らして外す。
 
 蒼い夜明けに、一面の白が仄かに輝く。
 
 木から雪が落ちたのだ、とまだ微かに粉雪を落としている庭木を見遣り、その梢に止まる黒い影に幸村は目を留めた。それは微かに頭を巡らせて幸村を見、小さく低く一声啼いて、そのままぐらりと傾き積もる雪の中へ、ど、と落ちた。慌てて雪を踏みしめ駆け寄ると、大烏は首を伸ばし目を閉じて、何かを掴む様に足を硬直させたまま息絶えていた。
 足の下で雪が融けて行く。
 幸村は両腕に余る大烏を抱き上げて、雪空を見上げた。湿ったような白灰の空はまだまだ雪を落とすつもりの様で、昼には総出で雪掻きだなと己の息を見ながら思う。
 
「戻らぬのだな」
 
 呟き、幸村は踵を返して縁側に膝を突き、手拭いを持って待っている黒づくめの忍びの元へとゆっくりと歩んだ。その目が、腕の中の大烏に注がれているのを幸村は知っていた。
 そう言えば家人も忍びも誰も、己に佐助の戻りを訊いて来ることはなかったなと幸村はふと思う。
 皆が幸村を甘やかすのはお前のせいだぞと胸の裡で己の忍びへと毒突き、幸村は手渡された手拭いを受け取り、冷えた烏の羽を拭った。
 忍びは何も言わず、もう一枚の手拭いを差し出したまま、幸村の気の済むのを待っていた。

 
 
烏の啼かぬ日はあれど

おまえのこたえぬひがくるとは。