20080414〜0624まで設置

 
 
 
 
 
 
「はあい、なあにー?」
 佐助佐助とどすどすと縁側を歩きながら猫の子でも呼ぶように名を叫べば、佐助は慌てて伝って来た庭木の上からいらえを返しながら飛び降りた。
「おお、居たか」
「うーん、出ようとしてたとこだったけどね」
 肩を竦め、佐助は歩み寄りながら首を傾げる。
「で、何? お仕事に変更でも?」
「耳が聞こえぬ」
 ぱちり、と一つ瞬いて、佐助は履き物を脱いで縁側に上がった。
「旦那、昨日も大将と殴り愛、した?」
「うむ! お館様の拳の熱さ、此の頬でしかと確かめた!」
「今更確かめんでも毎日の事でしょうが。その時に、耳のとこ殴られたりした?」
「お館様はその様な事はなさらぬぞ」
「まあね。でも弾みって事もあるじゃない。それに大将の拳圧じゃあ、当たんなくてもって事もあるし……きーんて耳鳴り、しなかった?」
 耳朶をつまみながら訊かれ、幸村は否、と答えた。
「妙な事はなかった」
「っそ。んじゃ、耳許ででかい音を聞いたりは? まあ、あんたの声よかでかい音なんてな、そうはねえけど」
「そうだな! 幸村の声は戦場の隅々まで届くと、お館様も申しておられた!」
「いや、それ、褒めてねえから。どっちが音がでかいかってより、音ってのは向かう方向が大事なんだよね。だから耳に真っ直ぐ音が入ると、あんたの声ほどでかくなくても、鼓膜破けたりもするからさ」
「嗚呼、お前達の忍び声は、それか」
「そうね。それのすっげえ版かな。で?」
「特にはないな」
 そうか、と佐助は顎に手を当て首を捻る。
「聞こえないのは、右? 左?」
「より聞こえぬのは左だが、右も水の膜が掛かった様だな」
「水が入ったとか……?」
「馬鹿にするな。水が入れば判る」
「否、水が入ったままにしとくと耳の病気になる事があるから……でも、痛くは無いんだろ」
「うむ」
 そっかあ、と耳から指を離して難しげに眉を顰めた佐助に、幸村は顎を引いた。
「医師殿の所へ、行くべきか?」
「うーん……その方が良いかもしんないけど………あ、」
 ふいに思い立った、と言う顔をして、佐助はその場に座り込んだ。目を瞬かせた幸村に、膝を叩いて見せる。
「旦那、膝枕」
「な、何だと?」
「良いから、早く」
 耳を見るのか、と合点がいって、幸村はごろりと左耳を上に膝の上へと頭を乗せた。目の前に薄い腹がある。と思えば耳を覗き込んだのか、鼻先に柔らかに使い込まれた着物が触れた。
「嗚呼、矢っ張りねえ」
 驚く程近くで聞こえた囁き声に、幸村は目玉だけをぎょろりと向けて窺った。
「何だ、虫でも入って居たか」
「はは、虫なんか入ってたら、鼓膜破って疾っくに鼻から出てるか頭に上って脳味噌食ってるよ」
「ま、誠か!」
「嘘に決まってんでしょうが。でも、虫が入った時はお医者か俺様か、誰か忍びを呼びな。吃驚して弄っちゃ駄目だよ」
 言いながら、ふっと耳を吹かれて幸村は肩を竦めた。
「旦那、耳掃除さぼってただろう」
「む、」
 そう言えば、と記憶を手繰り、前にしたのは何時だったろうと考えて、思い出せぬ程であるのに幸村は納得した。
「垢で塞がったか」
「そうだよ。汚ッたねえなあ。耳掃除くらい女中さん呼んで、してもらいなさいよ」
「仕方あるまい。いつもしてくれていた者が、産休で休みを取っておるのだ」
「あー、あんたんちの御女中方は、独り身のが少ないもんなあ」
「丁度良い。佐助、してくれ」
 はあ? と上がった頓狂な声が先程より遠くて、幸村は首を巡らせて忍びを見上げた。珍妙な顔をしている。
「変な顔だぞ、佐助」
「此の男前を掴まえて変な顔たあ、言ってくれるよ。やだよ、男の耳掻きなんか」
「女の耳なら掃除するのか」
「つうか、女にしてもらう方が良いよ」
 馬鹿を言う、と幸村は笑った。
「お前が、女に耳など弄らせるものか」
 唇を尖らせて不満の意を示し、佐助は溜息を吐いた。
「人の耳なんか、掃除した事、ねえよ」
「構わぬ。お前は器用だからな」
「痛くっても、知りませんよ」
「此の幸村、少々の痛みで音を上げたりなどはせぬぞ!」
「へえ、そうかい。じゃあ、うんと痛くしてやりましょうか」
 何処から手にしたものか竹の耳掻き棒を握り、意地悪げ口調を作りながらも目を細めて笑った佐助に、幸村はうむ、と返して再び膝に右の頬を付けた。そっと竹の端が耳の縁に触れる。
「うわあ、すっごいなあ、此れ」
「そうか」
「栓になってるよ。渦巻きだな。つぶ貝みてえ」
「おお、美味そうだな」
「全然美味そうじゃねえよ。気持ち悪い事言わないで下さいよ」
「ぬお! ごそっと聞こえたぞ!」
「あー、じゃあ未だあるんだ」
 何処かなあ、等と言いつつ矯めつ眇めつしているらしい佐助の躯は小刻みに動く。した事が無い、と言う割に、矢張りその器用さ故か、丁寧な手付きに痛みは無い。
 とろ、と落ちるままに瞼を閉ざすと、旦那あ、と間延びした声が、かさ、かさと耳を掻く音に混じり囁いた。
「……ん?」
「耳掃除もね、あんまりさぼると、耳の病気になったりするから」
「そうか。……では、時々、お前がしてくれ」
「厭だよ。誰か呼んでしてもらってよ。……まあ、誰もいなくて俺様の手が空いてたら、しても良いけど」
 躯は大事にしてよね、と小さな声が言って、幸村は薄く目を開けた。
「そうだな。耳が聞こえねば、お館様のお声も聞けぬ」
「其処が基準かよ。……まあ、あんたの御身に何かあれば、一番悲しむのは、大将だからね」
「そうか」
「そうだよ」
 幸村は再び目を閉じる。
「おれに何かあれば、佐助も泣くしな」 
 途端一段と皮膚の薄い、神経の近い部分を竹の縁が掠り、ぴしりと走った痛みに幸村は眉を顰めた。一度迷った竹は、けれど直ぐに何事も無かったかの様に、丁寧に耳を改めていく。
「そうだよ、悲しくってわんわん泣いちまうよ。路頭にも迷うし、ほんと、俺様の給料の為にも、長生きして下さいよ」
「そうだな………」
「ちょっと、寝ないで。次、右耳」
 うむ、とごろと身を返して再び膝に頭を落ち着けると、眩い庭が目に入った。此の光を巧みに入れて、耳の中を検分するのだろう佐助の腿は、筋肉の筋ばかりが触れて硬い。ついと頭を押し遣られると、頬骨が膝に当たった。掌にすぽりと関節の嵌る、まろい膝だ。
 噛んでやりたい、と思ったが、今動いては耳が破れると叱られるだろう。
 検分を終えたら噛んでやろうと考えながら、幸村は瞼を閉ざし、瞼を透かして見える己の血の赤さにぐるりと目玉を動かした。

 
 
柚子の葉落つる迄

約束ではない。