20071115〜20080107まで設置

 
 
 
 
 
 
「佐助」
 いつも通りに戦の後始末を終え、再び諜報の為に幾人かを放たねばならぬと深夜部屋を訪ねて来た忍びの帰り際、幸村はじっと腕を組んだ姿勢のまま低く名を呼んだ。膝を立て掛けていた佐助は、軽く首を傾げそれから座り直すと背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、幸村を見た。
「何です」
「………かすが殿の事だ」
 先日の戦で討ち取った上杉の忍びの名を出せば、佐助は怪訝そうに軽く眉を顰めた。
「どうかしましたか。確かにあんたが討ったんだろ? 改めたけど、偽物って事はなさそうだったけど」
 何か気になる事でも、と微塵の動揺もなくただ軍の、幸村の不利益だけを問う佐助に、幸村は一度強く唇を結んで、それからそっと息を吐いた。
「おれが彼の者を討ち取ったのが態とだったとしたら、お前、どうする」
「態とも思わずもないでしょ。戦なんだよ」
「そうではない。……戦にかこつけて、私情により槍を振るったのだとしたら、どうする、と訊いている」
「ううん……?」
 佐助は困惑げに首を傾げ、顎を撫でた。
「……つまり、あいつに対して、何か私怨でもあったって事? 旦那が、私怨を晴らすのに、彼の場を利用したって?」
 有り得ないでしょ、と一欠片の不審もなくけろりと言って、佐助は肩を竦めた。
「そもそも、もし何かあいつを殺してしまいたい理由があったとして、別に戦の場を使うこともないしね。敵国の忍びだもん。見たら討ち取る、それが旦那のお役目じゃないの」
「……だから、そうではない。無論、敵国の忍びであると言う事は、理由の一端ではあるのだが」
 理由はお前だ、佐助、と頭の中で反芻していたままに告げれば、少しばかり喉に引っ掛かった声が掠れた。
「俺様が、どうしたって?」
「……お前が、誑かされぬとも限らぬと」
 虹彩の薄い目が、大きく瞬いた。暗がりに緩んでいた瞳が、僅かにきゅ、と締まる。
「何なの、それ?」
 上擦った声で呆れた様に幾分か声を高くして咎め、佐助は肩を落としてはあ、と情けなさそうに溜息を吐いた。
「俺様ってそんなに信用が無い訳? くのいちの色に惑わされて、分を忘れる様に見えてんの」
「それは違う!」
「なら、何なのよ。顔見知りだからって手が鈍る様な事、旦那だってないでしょうが。俺だってそうだよ。だって、戦国なんだぜ。敵は結局、敵でしかねえよ」
「だが、お前は甘い」
 何かを言い掛けた口が、声を出す前にく、と閉じられた。幸村は酷く陰鬱に落ちていく気分のまま幾分か視線を下げ、小さく嘆息をした。
「その甘さが命取りにでもならぬかと、……それを、懸念した」
「つまり、」
 額の辺りに真っ直ぐに注がれる視線を感じたが、幸村は顔を上げずに黙って続きを聞いた。
「旦那は俺が、妙な仏心でも抱いて、かすがに殺されてやるなんて事にでもならないかって、そう心配した訳だ」
「………怨んで構わぬぞ」
「怨むよ」
 は、と目を上げれば、佐助は真っ白に血の気の引いた顔に一度ちいさく唇を震わせ、それから吊り上げた眦の端に薄く朱を上らせた。つと、目の縁が湿る。
「怨むよ、旦那。俺を信じてくれなかった事。そんな事なら、俺が殺してやれば良かった」
 言って素早く立ち上がり、佐助は今度こそ振り向かず部屋を出て行った。
 幸村は額を抱え、軽く瞑目をする。
「……お前、かすが殿に想いを寄せていたのではないか」
 だのに恨み言の一つも言わず、涙の一つも零してやれぬ忍びを、哀れと感じた事は間違いだろうか。佐助に潰される佐助の心が哀れで、けれど矢張り、どれだけの理由があろうが、嘘は不得手だ。
 泣かせてやりたくは思ったが、傷付けたい訳ではなかったのに。
「おれには上手く出来ぬな……佐助」
 優しくはなれぬ、と呟いて、おれの心は鬼なのだ、と幸村は思った。
 鬼にひとの心の哀しみなど、癒してやれる筈もない。
 
 南天にあった三日月は、疾うに東へと落ちていた。

 
 
赤鬼

泣かない赤鬼。