20070920〜1115まで設置

 
 
 
 
 
 
 明日は手透きだと言えばでは手合わせに付き合え、と何時も乍ら強引に決められて、仕方なしに朝餉の終わった頃を見計らい来てみれば、屋敷は騒然としていた。
「お早う御座いまあす。ねえ、どうしたの」
 なにやら汚れ物を抱えてばたばたと駆けて来た女中を一人掴まえて訊けば、嗚呼っ、と悲鳴なのか安堵なのか判らない声を上げて女中は泣きそうに目を潤ませた。
「さ、さ、佐助様! どうか、お早く!」
「は?」
「幸村様が……」
「旦那がどうした?」
 ふと表情を改めて肩を掴んだ手に力を込め真っ直ぐに顔を覗けば、女中はいよいよ泣きそうに顔を歪ませた。
「狐に憑かれてしまわれて……っ」
 怪我か病か、刺客にでも襲われたかと思えば町角で聞く噂話の様な事を告げられ、佐助はたっぷりと時間を掛けて女中の顔を眺め、手に持つ汚れ物が泥だらけの主の着物である事を見て取り、一向に冗談だと言い出す気配もないのを確認し、それから厳かに口を開いて一言告げた。
「夢でも見たの?」
 
 
 
 
 
 狐に憑かれた幸村様は、確かに常軌を逸した振る舞いをしたらしい。
 旦那あ、と腑抜けた声を上げてのんびりとやって来た佐助は縋り付く様な家人の目を一斉に向けられて、俺様別に旦那の係りでも祈祷師でもないんだけどなあ、と肩を竦め部屋の隅でずれた座布団の上に俯せていた主を見た。部屋は嵐でも過ぎたかの様に散らかって、枠の外れた障子は幾つも穴が空き、反対側の襖にも蹴抜いた大穴が空いている。
 しかしぼろぼろの家人を見る限り、幸村がやったと言うよりも狐憑き相手に大立ち回りを見せた者等がぶち抜いたものやも知れなかった。
 はいはい此の辺片付けて、とへたり込んでいる家人を追い立てて、佐助は幸村へと歩み寄った。ちらと目を上げた主は、のそり、と大きな犬の様な動きで顔を上げた。
「旦那。部屋こんなにしちゃって、巫山戯てんなら、怒るよ」
 幾分か低く、真面目な顔を作って言ってみても幸村ははお構いなしに顔を近付けて、ふんふんと鼻を鳴らしている。幸村は幾分か馬鹿ではあるし熱くなれば見境も無いが、基本的には立場を弁えた心根の正しい青年だ。家人に迷惑を掛けてまで、此の様な馬鹿馬鹿しい冗談をする事はない。
 しかしまあ狐に憑かれた等もなかなか考えにくくはあるし、疑問も悩みも拳一つで吹き飛ばせる便利な男だ、心に病を引き込んだ、とも考えにくい。
 となれば何処ぞの忍びか何かにでも変な術でも掛けられたのか、と顎を撫でて思案する間にも、幸村はしゃがみ込んだ佐助の胸や腹や首筋や顔や額や、彼方此方に顔を寄せてはにおいを嗅いでいる。
「ん?」
 ふいに、首筋に鼻先が触れんばかりの距離で鼻を鳴らしていた幸村が、至近距離で顔を覗いた。首を傾げれば、瞬きの少ない黒い目が真っ直ぐに佐助を映し込む。
「佐助だ」
「旦那、喋れるの?」
 答えず、幸村はふいに両手を佐助の肩へと掛けてのし掛かった。うわ、と声を上げ支え損ねて転がれば、やはりお構いなしにべろりと出した舌が頬を舐め上げる。
「ちょ、お、な、何だよ旦那! 止めろって!」
 べろべろと首と言わず顔と言わず口と言わず舐められて、慌てて助けを求めるも見守っていた家人の顔にはどことなく明るいものが混じる。なんだその和んだ顔は、と突っ込み掛けて、それから確かに此れは犬にでもじゃれつかれている様にも見えるな、と佐助は呻いた。なんとか襟首をひっ掴んで引き剥がした幸村は、尻尾があればぶんぶんと千切れんばかりに振っていそうな顔で目を輝かせている。
「流石は佐助殿!」
「幸村様を懐かせておしまいになるとは」
「いやいやいや、なんで其処で喜んじゃうかなあ。何も解決してないでしょうが」
 まだ半分のし掛かられたまま、何とか躯の下から出ようと身を半分返してずりずりと俯せの躯を起こそうと試みれば、どし、と背の真ん中を押さえられて再びべしゃりと畳に潰れる。
「ちょっと、旦那あ───って痛い痛い痛い! 何!?」
 がぶ、と音が聞こえそうな勢いで首の後ろに噛み付かれ、悲鳴を上げて暴れるとにこやかに眺めて居た家人達が慌てて近寄り幸村を引き剥がしてくれた。油断をすると暴れる幸村の手足にはじき飛ばされそうで、佐助は忍びの器用さでするりと合間を潜り抜け、其れからぐっと握った拳を真っ直ぐに主の脳天目掛けて振り下ろした。
「ぎゃん!」
 ご、と鈍い音がして、犬の悲鳴そのものの声を上げへたり込んだ幸村が、両手で頭を抱えて哀れな顔で佐助を見上げる。
「皆さんに迷惑掛けるんじゃないの! 犬なら犬らしく聞き分けなさい!」
「さ、佐助殿、此れは幸村様で」
「今は犬!」
 はい、と滅多に怒鳴り声の持続する事のない佐助の一睨みに黙り込み、家人は一歩遠巻きに下がった。
 全く、と一つ溜息を吐き、佐助は萎れている幸村の頭に手を乗せてぽんぽん、と軽く撫でた。
「ま、少し大人しく待ってなさいよ、旦那。直ぐに治してあげるから」
 くうん、と鼻を鳴らした幸村に漸く僅かに顔を弛めて、佐助は緩んだ夜着に目を遣り、此れを着替えさせようとしての惨状かな、と検討を付けた。
「ねえ、俺様、ちょっと出掛けて来るから、」
「い、いけませぬ佐助殿!」
「佐助殿がおらねば、誰が幸村様の手綱を取れると言うのです!」
「我等をお見捨て下さいますな!」
 詰め寄る家人にええええ、と引き攣り、幸村の方へと身を引けばひたと温かな躯が触れる。ちらと見れば、すっかり犬の仕種で寄り添った幸村が、じっと佐助を見つめていた。仕種は犬でも躯は大の男だ。間近にある目が真っ直ぐに覗く。
「うう……でも、此れ戻すにもどんな術かが判んねえと、どうにも」
「おお、流石忍隊長殿! 忍びの術であるのなら、幾らも掛からず戻せましょうぞ」
「いやいや、だからさ」
「真田の忍隊は、一騎当千の兵ばかりが揃いますからなあ」
 この場合どれだけの敵を屠れるかどうかは関係がないだろう、と思いはするが、主に似てか武田の習いか少々馬鹿の気のある家人達である。正論を聞いてくれそうな雰囲気ではない。
 どうしたものか、ともう一度呻いた佐助の頬を、ぺろりと控え目に肉厚の舌が舐めた。見れば、気遣いげな顔をした幸村が、じっと覗き込んでいる。
 佐助は一つ溜息を吐き、くしゃくしゃと前髪の被る幸村の額を撫でた。
「判った、判った。じゃあ誰か、才蔵呼んで来て」
 彼奴なら眩惑や暗示の術にも詳しいし、何か判るかも、と言えば、承知致したと力強く頷いて、家人達は我先にと部屋を出て行った。
 別に全員で行く事ないじゃない、と首を傾げ、次の瞬間逃げられた、とはっとした肩にがぶと噛み付かれて再び悲鳴を上げた佐助を、今度は助けに来てくれる者はいなかった。

 
 
犬じもの

でも多分狼犬。