20061115〜1210まで設置

 
 
 
 
 
 
 旦那は今少し落ち込んでいる。唯一無二の好敵手が死んだのだ。再戦を果たさず死んだのだ。
 武田はその戦、まったく無干渉で通していた(上杉との戦で忙しかったのだ)。そうしたら実にあっさりさっくりと、伏兵のように現れた豊臣に奥州はかっさらわれてしまった。同盟を組んでいたわけではなかったから武田は動かず、ただ豊臣の動きを由々しきものとして捉えたうちの大将と上杉の軍神との間で話し合いがなされ、一旦休戦ということに相成った。だから戦でしか働きのない武将は今とても暇だ。いつ起こるか判らない戦に備えて鍛錬を怠りはしないが、それでもとても暇だ。
 旦那は毎日毎日いつもと変わらず鍛錬をして飯も食い夜も眠ってはいたが、鍛錬はどこか身が入らないし飯は人並みにしか食わないし眠る前に一人で、時には俺を伴って少しだけ静かに晩酌をするようになった。別に酒が呑めないお人じゃないが、静かに呑むお人でもなかったからまったくもって異常事態だ。
 なんとも口惜しい豊臣秀吉許すまじ、と伊達政宗討ち死にの報が届いたそのときには涙を流し吠えたが、いつもなら、もう疾うに立ち直っていていいはずだった。なんと言っても今は乱世、武人である以上、戦でひとが死ぬなんて日常茶飯事だ。
「なあ、佐助」
 酒は毎日呑むようにはなったけれど、酒量自体は大したことはない。弱いわけではないのに、深酒を好むお人ではなかった。
 銚子がほとんど空なのを確かめて、もう一本用意しようかと考えながらなにと言えば、旦那は杯を傾けもせず障子越しに月の光を眺めたまま、悲しそうな顔をした。
「お前はまだ死ぬな。死ぬなら、某に断ってからゆけよ」
「命令ですか、お願いですか」
「頼み事だ」
「なら約束は出来ませんけど、まあ、出来るだけ叶うよう頑張りますか」
 うん、と頷いて、旦那はようやっと俺を見て少し笑って、もう寝る、と言った。酒を片付けてお休みなさいと部屋を失礼すれば、濡れ縁には月の光が充ち満ちて、嗚呼なんて残酷なひとだと俺は銚子を逆さにして残った酒を庭に撒いた。まろい芳香が漂う。
 奥州の、手の届かない所で死んだ好敵手の死を悲しむ癖に、ついこないだまで一緒に戦っていた上杉に殺された仲間のことなんか、旦那は疾っくに悲しみ終わってしまっているのだ。お主の無念は必ず晴らすと前向きに誓ってそうして疾っくに道半ばへ埋めて前を見て歩き出してしまっているのだ。
 旦那は俺が死んでも嘆くだろう。けれど他の忍びが死んだとしても、数日胸を痛めてあとは立ち直ってしまうだろう。
 ごめんなと酒の匂いの漂う中、月を見上げて俺は思った。
 俺は旦那の代わりに悲しんであげることも出来ないんだごめんな。
 忍びにも心があればいいのにと考えながら、俺は月に背を向け厨へ向かった。

 
 
月の前の灯火

自分だって薮の影は見えてない。