20070515〜0605まで設置

 
 
 
 
 
 
 遂に己が忍びの戻らなかった時、裏切りか、足抜けか、と狼狽えた臣下に戸惑い、捜し出して掟に則り始末すべきか、と問うて来た忍び隊の者等に幸村は、彼れが裏切る筈はなく、その内戻るやもしれぬし、戻らぬのなら死んだのであろう、探すには及ばぬ、と頷いた。
 感情を露わにする事を由としない忍びが、ほっと安堵の色を目に浮かべたのを見て取って、彼れは本当に、下の者に好かれていたなと幸村はしみじみと思ったものだった。
 
 嗚呼、と啼く声に、屍の山に立ち尽くしたまま息を整えていた幸村は、首を巡らせた。目の先には、死肉を啄む烏が居る。腐肉を漁る方が美味いのか、篝火がある内はその熱が恐ろしいのかは判らなかったが、獣がこうして、未だ戦の火が絶える前に戦場に降り立つのは珍しい。
 そう思って眺めて居れば、目玉を突いてずるりと引き出し、黒々とした舌を覗かせ嘴を上向け、首を晒して飲み込んだ烏は、ふとその円らな黒い目を、幸村に向けた。暫し、見つめ合う。
 
「………佐助」
 
 口を突いた言葉に自ら驚き、幸村は握り締めていた槍を咄嗟に一振りした。ぼう、と飛び散った火に驚いた烏は、一言恨めしそうな啼き声を上げ、ばさりと大きな翼で羽撃いて、夕暮れの空へと去って行く。
 
 
 一度、二度、そんな事があった。唯の気の迷いである事は判っていたから、幸村はそれを誰にも言わなかったし、直に己でも忘れてしまった。
 と言うのも忍びが行方を眩まして五年の後に、幸村の主である武田信玄が天下統一を果たし、その後五年の内に速やかに、国の全ては平らげられた。三十になる前に戦場から離れた幸村は、信玄の片腕として骨身を惜しんで仕えた。
 
 若い頃の鍛錬により頑健に作られた躯は、命を取られる程の病を寄せ付ける事も、また少しばかり残した真田忍の働きで、暗殺の危機に晒される事もなく、幸村は割合長く生きた。
 幸村が妻を娶り、子を成し、孫を得て、老年に差し掛かっても、結局、己が忍びは戻らなかった。最早その髪の色以外、顔も、声も思い出す事の出来ない忍びの事を思う事は年々少なくなっていたが、時折、茜に焼けた空を見上げた時や、茂る木々の天狗巣を眺めた時等に思い出し、そんな時は、忘れた筈の声がふいに、耳の奥に蘇るのだった。
 昔、未だ若い時分、忍びが側にいた頃に、俺は畜生道に堕ちるねえ、と言った顔は暗闇に紛れて見えなかったが、笑みを含んだ声は聞いて取れたし、実際笑っているだろう事は、触れ合った肌の震えで感じる事が出来た。
 何故だ、と問えば、だってこんな事、とまた笑うので、それは親兄弟での話だろう、と言えば、血よりも濃いものもあると返されたから、ならば己も畜生に転じるかと笑えば、何を言っているのだと憤慨された。
 
「あんたは、ちゃんと天に行くんだから」
 
 でなくば地獄に堕ちるのだからと言う忍びに、ならばお前も、と言い募れば、己と幸村は違うのだと、いつになく頑なに諌められて、些か気を損ねたものだった。
 
 嗚呼、と、嗄れた声に、縁側に立ち尽くしたまま、ぼんやりと庭を眺めていた幸村は、庭木に目を向けた。枝に留まった烏は、茜に熟した柿には見向きもせずに、大きく翼を広げて降り立ち、真っ赤な南天の実を突いて、細い枝ごと地に落とした。
 そのまま、主の許可でも得る様に此方を見るものだから、つい「よい、持ってゆけ」と頷くと、烏は一声嗄れた声で啼いて枝を咥え、大きく羽撃きぐるりと庭の上を旋回して、それから山の方へと去って行った。
 
 彼れが、獣に生まれ変わると言うのなら。
 
 一体何度生まれ変わった事だろう、と老いながらも長く生きてしまった己を顧みて、幸村は薄く目を細め、懐手に腕を組んだ。
「そうか。お前なら、見知らぬ兵士の腐肉等、食まぬな」
 此の己の老いた肉なら食むだろうかと考えて、しかしそれもせぬであろうと幸村は思う。それが出来るのなら彼れは畜生道に等堕ちぬし、堕ちるなら、引きずり込んででも、幸村を同じ道へと連れ去るだろう。
 
 
 
 その後暫しして命の尽きた幸村の、野辺の火へと誰が止める間もなく一羽の烏が飛び込んで死んだが、その死骸は骨の一欠片まで丁寧に取り除かれ、哀れに思った下男の手で野に埋められた。

 
 
烏滸

馬鹿馬鹿しい話。