20070514〜0605まで設置
常々不惑と思われがちの佐助が、実際武田師弟の思いの斜め上を走る情熱に触れた時以外で、驚愕を覚える事は大変に珍しい事であった。つまり今、悲鳴も喉につかえたままの事態に陥っている事は、大変に珍しい事であると言えた。 否珍しいなんてもんじゃないよ、と、佐助は背なから肩から湧き出る様にむくむくと嵩を増す黒い羽毛に改めた様に酷く慌て、装束を押し上げるそれを手で毟ろうと叩き、それから手の甲や腕が見る見る細い管の様に痩せて、その不気味な骨の様な物からばらばらと、羽根が育つのを目を丸くして見詰めた。 「だんな」 喉を鳴らした慣れ親しんだ筈の音は何だか辿々しくて、呼んだ筈の前を行く主の背は、此方を振り向きもしない。 「だんな」 ずんずんと先へと行ってしまう紅蓮の背を、引っ掛けた草履が邪魔をする足でよろよろと追い掛けて、佐助は喉を喘がせた。嗚呼、と、嗄れた音が声帯を震わす。 蹌踉めいた躯を支えようと泳がせた両腕は最早立派な翼で、嗚呼、嗚呼、と啼く声が、己の使役する獣の声と酷似している事に佐助は気付いた。旦那、と呼んだつもりで、嗚呼、とまた啼けば、それで漸く、赤い背が立ち止まり、振り向いた。真ん丸くした目が、ぱちくりとどこかあどけなく瞬いて、佐助を見詰める。 旦那、と安堵して呼べば、主は少しばかり首を傾げて、手にした槍をくるりと返し、肩に担いだ。 「烏か」 言って、再び背を向けた主は、今度は幾ら啼いても振り向かず、ただずんずんと、道の先へと往ってしまう。 成る程、畜生に掛ける言葉はそれで充分と、唐突に納得して、佐助はそれでもう、人であった事を忘れた。 ばさ、ばさと羽撃いて、地を駆けるよりも遙かに容易く風に乗り、佐助はくるりと大きく輪を描き、戦場へと去って往く赤い背に尾を向けて、黒々とした山の影へと進路を定めた。 彼の山には今の時期、真っ赤な実の生る木が立っている。 赤い背を追えば幾らでも死肉を啄む事は出来るがそれをせず、佐助は多数の死の気配に背を向け夕闇を縫い、篝火の遠い人の世ならざる夜へと去った。 |
畜生道
色情の果て。