20070324〜0514まで設置
「今回割と長かったでしょ。戦場の飯って旨くないよねえ。帰ったら夕餉の前に、賄いのひとに何か、ちょこっと作って貰おうね」 ざく、ざくと腐葉土を踏みながら、背中の重みに佐助は続けた。 「皆あんたのお帰りをお待ちですよ。武田の若子は人気者だよねえ。知ってる? あんたに懸想してる侍女さん、結構いるんだよ。くのいちの間でもさあ、良く話しに上るの。忍びだって女は女だからね、そう言う話、好きなんだよねえ。可愛いもんだよ、まったく」 くつくつと喉を鳴らして、でも旦那は破廉恥だって怒るかな、と囁くと、ど、と軽く背が叩かれた。佐助はもう一度、声を潜めて笑う。 「だからまあ、さっさと帰りましょうね。馬拾えなかったから、俺の背中なんかで、居心地悪いだろうけど、ちょっとだけ我慢してね。この山降りたらもう直ぐ、」 「………佐助」 掠れた、割れた声が、ひっそりと名を囁いた。其の何処か湿る鉄の臭いのする息に、佐助はふつりと言葉を収める。 「泣くな」 ざら、と寄り掛かる様に項に置かれていた力無い手が脊椎の頭を撫でて、佐助は足下に視線を落として歩みながら、一つ瞬いた。ぽつんと地に浸みた涙は、黒々とした腐葉に紛れて、何処に落ちたかも判らない。 「うん、御免ね」 「……構わぬ。だが、」 掠れた咳が言葉を邪魔して、佐助は僅かに足を弛めて背に負った主の息が整うのを待ち、再び足を早めた。続きが、瀕死の身から続けられる事は無くて、けれど促す事はせずに佐助は黙々と歩く。ぽたぽたと、涙腺が壊れた様に、溶けた雪が滴る様に、涙が頬を伝って落ちる。 預かって居た、隊は見捨てた。 兵卒達は逃げ延びろと、自分達が食い止めると群がる敵兵の合間から瀕死の幸村を引き摺り出した佐助に叫んだが、皆が皆、そう思って居たかは判らない。勝てる戦だと聞いていたのにと、恨みに思った者も居ただろう。 けれどそんな怨嗟は、判った、と、武田の為に死んでくれと頷いた、己が受けるべきだろう。背を追う恨みの影が、幸村を連れ去る事など、赦さない。 しかし軟弱な心が勝手に軋んで、涙となって溢れてしまう。浅過ぎる程に浅い瀕死の息が、耳許で響く度ぎしりぎしりと躯中が音を立てる。血の巡る音が忌まわしい。鼓動一つ打つ度に、涙が零れて落ちていく。 幸村の血の臭いが、する。 赤い装束が視界から消えたと思った瞬間、首を獲れ、真田幸村だ、と叫び群がった敵兵に、失せたのは理性では無かった。躯中の血を冷やしたかと思う程に瞬時に醒めた頭の中で、けれど音を立てて、箍が外れた。 逃れようと身を捩る敵兵の筋の影すら見える様だった。閃く白刃の弾く木漏れ日が開き切った瞳孔に眩し過ぎた。血腥い叫びの上がる山中は、獣の声、虫の声一つしないものの忍びの耳にはせせらぎすら届いて、場違いに長閑なものだった。 瞬時に両の手から飛び立った、狭隘な山中には一見向かない大手裏剣が、空を斬る音を立てて血飛沫を上げる。其のまま楡にも藪にも邪魔をされずに手元に戻った大手裏剣の、其の技の妙に、気付いた者がどれだけ居たか。 群がる敵を伏し、幸村の躯を担ぎ上げて跳び上がれば、追って来た敵の忍びは部下が片付けた。思えば、彼れらも見殺しにした。 佐助、と瀕死の息の下、主が囁いた。 なあに、と咎めもせずに返せば、ぐったりと寄り掛かる頭が動いて、髪を一筋、噛まれた。 「おれは、死ぬか」 「………そうだねえ。俺様の部下を一人、本陣に行かせたから、そいつがちゃんと生き延びてこっちの状況を伝えられれば、きっと大将は助けを向かわせてくれるよね。其れが間に合って、もうちょっときちんと手当て出来たら、生き延びるかも知れないね」 「間に合わねば」 「死ぬんじゃないかなあ。血止めくらいしか、出来なかったし」 そうか、と囁いた息には熱が無い。籠手に包まれた手の体温は判らないが、額当てを外した耳許に触れる頬の冷たさに、ふいに、佐助は背筋を振るわせた。ざら、と、汚れた籠手が、髪を撫でる。 「佐助」 「うん、なあに?」 「まだ、泣くな」 「…………」 幸村が死んだなら泣いて良いのだろうか、と考えて、また新たな涙が頬を滑った。 苛めている訳ではないのだぞ、と、弱い乍らにからかう様な声が笑みを含めて、佐助は一つ瞬く。 「……旦那」 「なんだ」 「あんたが死んだら、どうしよう」 「お館様の、為に働け」 「お仕事するの」 「無論」 お前は其れしか出来ぬではないか、と矢張り笑みを含ませた声にからかわれ、佐助はふいに可笑しくなって、唇を弓形に吊り上げた。 「はは、そりゃ、そうだ」 「少し、寝るぞ」 「其のまま、死なないで頂戴よ」 「息が詰まる様なら、起こせ」 失血の眠気に逆らえぬのか、返事になっていない言葉を返してふいにずしりと重みが増した。じわりと、背に汗を掻く。酷く、熱い。首筋の呼気に熱が籠もる。 涙が、止まった。 佐助は幾度か瞬いて、ふと木々の合間から覗く空を見上げた。敵の気配は、今の所、無い。 ぴゅう、と口笛を吹くと、僅かに間を置いて、何羽かの烏が梢に集まる。其の中の一羽を吟味してもう一度口笛を吹くと、最も大きく疾い其れは、黒々とした夜の様な翼を広げて、螺旋を描く様に滑空した。猛禽に近い動きをする。周囲の、山鼠が慌てた様に巣穴に飛び込むかさかさとした音が、耳に届いた。 「凄いなあ、旦那」 腰に下げた闇烏は大人しい。此れが幸村の、消え掛けた命すら吸い上げては困ると捨てて来ようかとも思ったが、陽の気を此れでもかと纏う幸村には、其の陰気など寄り付く事すら出来ぬ様だ。 「生き延びそうだ」 乾いた血の臭いはまだ、漂う。けれど鮮血の臭いはもう、無い。傷口から溢れて居た血が、完全に止まった。 佐助は背負った幸村を下ろし、半ば担ぐ様に片腕に抱え直した。もう片腕を、大烏に差し出す。 二人分の、戦装束を纏ったままの躯を吊り下げ敵に見付からぬ様速やかに飛べば、腕を痛める事は承知だ。余り振り回されぬ様直線の滑空を主にさせて居る烏だが、今日はそんな事は言って居られない。何しろ、得物すら振れぬ。唯ひたすら、烏の野生と己の技に賭けて、逃げ延びるしかない。 「頼むよ、落とさないでね」 ぱくんと大きな嘴を開けて、声なく啼いて答えた烏はばさりと羽撃き枝から飛び立ち、佐助の腕を掴んだ。其のまま、ぐんと躯が浮かび上がる。 ぐるぐると振られる躯を出来るだけ保ち主を抱えて、佐助は枝の合間を縫い見る見る近付く空に目を細めた。薄青い空が、異様に眩しい。 此れでは腕だけで無く目も痛めそうだなと考えて、其れで忍び働きをする事が適わなくなったとしたら此の人は自分を捨てるだろうか、それとも出来る事をしろと叱咤するだろうかと思う。 叩き起こして訊いてみたい気もしたが、其れはせずに目の奥に残る白刃の煌めきと空の光に網膜を灼き乍ら、佐助は目を細めて眼下を見下ろし、武田の菱を、探した。 腕の中の躯の熱に、皮膚が溶け出し癒着してしまった様に錯覚して、離れなくなったら困るな等と考える自分も大概傷と疲労に思考が飛んでいると、佐助は視界を狭めたまま、音無く嗤った。 |
隻手の声
音も無く、香も無し。