20070227〜0324まで設置

 
 
 
 
 
 
 行け、と、号令を掛けてくれないだろうかと佐助はじっと仁王立ちのまま見詰めて来る主を見詰め返して、僅かに首を傾げた。
 隊が引く其の後の守りを、しんがりを買って出たのは佐助だが、其れを務めよとそう言ったのは幸村だ。こうしている間にも、刻一刻と追撃の刃は迫って居る。
「旦那」
 早くしなくては追い付かれてしまう。忍隊がしんがりを務める意味がなくなる。
 しかし幸村は色が無くなるほど強く唇を引き締めたままだ。佐助は溜息を吐いて、へにゃりと笑った。
「戻った奴にはさあ、たんまり褒美を上げてよね、旦那。報奨金は無いし、懐具合はきついだろうけど」
「……うむ」
「戻らなかった連中は、これでもかってくらい褒めてやってよ」
「…………、お前は、何が欲しいのだ」
「俺様?」
 軽く肩を竦めて、そうだなあ、と唇に笑みを掃いたままちらりと考え込むふりをして、佐助はすぐに幸村を見た。
「給料上げてくれりゃあ、それでいいよ、なんてな」
「………うむ」
「あれ、昇給してくれんの? 嬉しいね。んじゃ、頑張んなきゃあ」
 じゃあね、旦那、とくるりと背を向けて、結局号令を聞かず、何か言いたげにした気配を置き去りに佐助は直ぐ様隊へと駆けた。
「長!」
「悪い、待たせた」
「もう一里を切っております」
「うわ、流石早いね。んじゃ、行こうか。悪ぃけど、死んでくれな」
 は、と頷いた見知った顔ばかりを見渡して小さく笑い、佐助は先陣を切って駆けた。敗走して行く武田とは真逆の方向だ。頷いた半分が佐助に従い、残り半分が、突破した敵兵を食い止める為に、残る。
 どちらにしても、此の数で挑むには追撃の兵が多過ぎた。恐らく武田は尻に食いつかれるだろう。だが、其れは幸村の隊が追い散らし、大した痛手を受けることなく逃げ切るだろう。
 其れを可能とする為だけに、捨て駒として、忍隊は残る。
 
 死にに行け、と、命じる事は、佐助には初めての経験ではない。
 
 真田隊のうちでは重用されているとはいえ、忍隊は所詮草の集団だ。捨て駒として使われる事は少なく無いし、死ぬ自由も生きる自由も無くて当たり前だ。忍びが捨て駒となる事で武田全体が生き延びる事が出来るのなら、其れで構わないのだ。末端は、切り捨てられる為にある。
 その末端の長で在るのだから、佐助は生きては戻れぬ任を命じる事は少なくなかった。無論、己が行けば死なずに済む任で在るのなら己が向かうし無駄に死なせる事はしないが、それでも、どうしても生きては帰れぬ任と言うものはある。
 しかし思えば、幸村は隊の指揮を執る様になってまだ日が浅い。忍隊の指揮は佐助が執っているのだし、そう言えば、死ねと命を下すのは、此れが初めてなのかもしれなかった。
 無論戦である以上、戦えと命ずる事は死ねと命ずる事とも通じるが、しかし其れと此れとは話が違う。未だ年若い主が戸惑うのも無理はないのか、と佐助は思う。
(……給料)
 ほんとに上げてくれんのかな、と佐助は小さく笑った。戻るつもりはない。生きて帰る気はない。
 けれど其れは仕事をする、得物を手にする時にはいつでも思う事で、だから此の仕事も、佐助にはいつもの戦と変わりがない。ただ少しばかりきついと言うだけの話だ。
 参ったね、と佐助は心中で呟いた。口元に笑みが浮かぶ。
 生きて帰れぬと判って居ると言うのに、こんな時でも気持ちは平坦だ。日常の延長の様な気持ちで戦に臨む、其れは裏を返せば既に日常までもが仕事に侵蝕されているという事だろう。
(俺様、働き過ぎだわ)
 ふふ、と小さく嗤った息に隣を駆ける部下が怪訝な顔をする前に、後方に残して来た筈の一人が追い付いて来た。
「長!」
「どうした、何か」
「幸村様の隊が、退きません!」
 ちらりと視線で問えば、共に食い止めると言って聞かないと、感情を洩らす事の少ない忍びには珍しい程に、ほとほと困り果てた顔で返された。皆真田忍隊の者だ。幸村には、初陣の頃から従う者も多い。
 嗚呼、やれやれ、と呟き軽く天を仰いで、佐助は嘆息した。
「判った、作戦変更だ。適度に相手の兵力を削ぎつつ、後退して誘い込む。お前は戻って、真田の旦那の隊と一緒に潜伏しろ。どんだけ上手く行くか判んねえけど、まあ、戦いながら引けば、あっちだって頭に血が上るし、万が一には上手く行くかも知れない」
「はっ」
 さっと身を翻し、素早く去った部下の気配から気を離して佐助は先程怪訝な顔をさせた部下をちらりと見、苦笑した。
「武田には未だ、真田忍隊が要るってさ。旦那のお達しだ。しょうがねえ、生き延びよう」
「幸村様に同意致します」
「ん?」
「武田には、未だ長が必要だと言う事でしょう」
 長は必ず生きて戻しますと囁くように呟かれた言葉に、佐助は小さく肩を竦めて、後はただ前を見て駆けた。

 
 
蜥蜴の尻尾

命の優先順位。