20061102〜1210まで設置
ぜい、ぜい、ぜい、と己の胸が鳴っている。 限界まで走り過ぎたためか鳩尾から鉄錆の臭いが上がる。もう小娘の歩みよりものろのろとしか歩んではおれないというのに、まだ生きたいと願う心が今にも腿がはち切れてしまいそうなほどに疲れ果てた足を動かしている。左腕で抱えた腹がじくじくと痛む。腑が飛び出ているような気がして怖くて見ることも出来ない。 「───うあ、」 ようよう動かしていた足が縺れた。どうと転がったのは腐葉土の上だ。もう秋も深く冬も間近で、泥だらけ血だらけで悴んだ手は疾うに得物を失くしていた。 投げ出した手の中指、爪のあったはずの場所が真っ赤に窪む。どこかで剥いだのやも知れぬ。 ぜい、ぜい、ぜい、と胸は鳴り続けていて、もがいた腕で躯を起こし、腹を抱えたままの左の腕に力を込める。びちゃり。と、濡れた音がした。 嗚呼もう死ぬ。此処で。何もない戦場からも離れた此処で。 盗賊に身包み剥がされて獣に肉を食われ腑に蛆が湧き小鳥に骨を啄まれて全部なくなる。 けれどまだ逃げ続けなくてはならない。 鬼ごっこの鬼はひたひたと背後から迫っているはずだった。 男はぎゅうと腹を抱えたまま、またなんとか立ち上がった。縺れる足を出す。いち、に、いち、に、とぜいぜいと鳴る喉の奥で辿々しく唱えながら、少しでも先に、この山を越えれば隣領だと、 ───ばさ。 羽音が聞こえた気がした。かさとも音を立てずに細い影がふいに目の前に現れた。 「あ、」 呟いた時にはくろがねの刃が閃いた。苦無だ、と閃く腕の先を凝視しながら頭のどこかで考えて、同時にああ死ぬのだと当たり前に思う。 嗚呼、この腹の中の物を守ることはできるのだろうか。この忍びは己の腑を漁るだろうか。 苦無の切っ先が首筋に触れた、と思った瞬間、皮一枚を切り裂いて手首がくるりと翻された。忙しなく動かした眼に、苦笑したような眼と赤狗の背のような髪と、僅かに動き言葉を刻んだ唇と。 ばっと激しく風音が耳を裂き、瞬間遅れて舞った風が真っ黒な羽を吹き上げる。 気付くともう目の前に忍びの姿は無くて、ぜい、と慣らした己の喉の音の合間に、鬨の声が切れ切れに届いた。敵方の勝利を告げる勝ち鬨だ。追撃の命を受けていなかったのだろうか。見逃してくれたのか。 否。 ───命拾いだと思うか? 男は唇の端をぎゅうと上げた。べったりと腐葉土に座り込んだまま、もう立ち上がる気力など微塵もなかった。 嗚呼、命など拾えたわけはない。むしろあの手に掛かり、一思いに喉を裂かれたほうが苦しまずに済んだろう。 此処は山だ。冬篭もりのために各々の獣が、餌を探してうろついている場所だ。そんな場所に血の臭いを纏わせたまま座り込んでいる自分は格好の餌食だろう。 男は押さえ付けていた腕を僅かに弛めた。ぬめる感触はあるが、ほんの僅か、指三本が差し込める程度に腹壁を空けた腹からは、腑が飛び出すことはなかった。腑の奥へと隠した御朱印は今未だここに有りはするがさて、首を獲られたであろう君主の印など必死で隠したところで何の意味があろう。 あの忍びはここに印があることを知っていたろうに、それを盗って行くことをしなかった。それが答えであろう。 命拾いだと思うかと、酷薄に問うた唇の動きを暗くなり始めた視界に再び見ながら、糞っ垂れの鼠めが、と男は小さく毒突いた。 |
地が傾いて舞が舞われぬ
給料分のお仕事だけしたいさすけ。