ばさ、と羽撃く音を立てて烏が飛び立つ。その大きな翼の向こうの忍びの伸びた腕の先の大手裏剣が、つと血の筋を浮かせてゆるりと舞った。
 幸村は音も失せた様な一瞬に、ひとつ瞬きをする。
「旦那!」
 瞼を開いた時には再び時は動き、鋭く掛けられた声と共に反射の動きで繰り出した槍が、鎧の胴を軽々と串刺す。研き抜かれた穂先は引く動きのままにすんなりと肉から抜け、幸村は返す穂先で弓手の敵を屠った。
「佐助ッ!」
 周囲を一掃し、ぐるりと背後を顧みれば、最後の敵を薙ぎ伏せた佐助の躯が、大手裏剣を投げ付けた姿勢のままにぐんと身を沈めた所だった。ばさり、と橙の癖毛が、顔へと掛かる。
「無事か」
 どことなく違和感を感じながら槍をびゅうと振り穂先の血糊を飛ばして、幸村は二の腕で汚れた頬を拭った。佐助は背を起こし、天を仰ぐようにして、再びばさ、と髪を跳ね上げそれから額を押さえて前髪を掻き上げた。
「旦那こそ、怪我は」
「無い。……額当ては、どうした」
 違和感の正体に気付き訊ねれば、佐助は態とらしく忌々しそうに顔を顰めて、肩を竦めた。
「さっき、失くしちゃった。弾き飛ばされて」
「下手を打ったな」
「はいはい、すみませんねえ。うっかり、油断しまして」
「首を飛ばされなかっただけ、ましと思え。命拾いをしたな」
「はいはいはい、そうですねえ。まあ世間話してる暇、ねえだろ。早いとこ本陣に戻るぜ、旦那。あっちも乱戦なんだ」
「嗚呼、急ぐぞ」
 言いながら頭の後、硬く結ばれた鉢巻きの結び目に指を掛けて力任せに引き抜き、幸村は片側に結び目の玉が出来たままの其れを、忍びへと差し出した。佐助はもさもさと落ちる前髪を掻き上げて、一つ瞬く。
「え、何?」
「使え」
「へ?」
 要領を得ない忍びに痺れを切らし、幸村はその肩を掴んで背を向けさせる。そのまま額へとぐるりと鉢巻きを回し、ぎりときつく締め上げれば悲鳴が上がった。
「痛たたたた! ちょ、でこが割れる!」
「割れぬわ、馬鹿者」
「何すんの! 俺様のおでこがそんなに憎いの!? こんなに可愛いおでこなのに!」
「訳の判らぬ事を申すな。……上手くゆかぬな」
 矢張り自分でやれ、と解放すれば、佐助は縒れた鉢巻きを解いて直し、再び額へと巻き掛けて、それからふと片手で髪を掻き上げた。そのまま器用に髪を押さえて額ではなく頭の方へと巻き付け、きちりと項の上で縛る。
「お、いいねえ。助かったよ、旦那。でもこの鉢巻き、もう硬結びの所、解けねえぜ」
「一度戦に使えば、血の染みが落ちぬ。おれは構わぬが、他の者が気にするからな、どうせもう使えぬ」
 だから構わぬ、と言って幸村は槍を担ぎ直し、踵を返した。
「急ぎ戻るぞ、佐助! お館様をお守りせねば」
「はいはい。まっ、大将に守りなんか、いらねえだろうけどな」
「無論だ! だが、お館様が戦っておられるのならば、お側へと馳せねばならぬ! 本陣まで突破されるなど、あってはならぬ事だ!」
 はいはい、と肩を竦める調子で言った声を既に走り出しながら肩越しに聞き、幸村は本陣の火を見た。
 盛る炎の色に、お館様が滾っておられる、と唇の端を昂揚に引き上げながら、背後にばさりと羽音を聞いた気がしたが、幸村は振り向かずに師の炎を目指した。

 
 
 
 
 
 
 
20081014
初出:20080408