己が一族を遙か後方に残したまま駆けに駆け、ひい、はあ、と普段聞いたこともない掠れた息が喉から洩れるのを聞く。
枝を蹴り、屋根に触れ、その度黒い旋風を渦巻いて瞬く間に駆け戻れば、雇い主は赤々とした夕焼けに向かい、ゆったりと庭を歩んでいた。
「………風魔か」
風を切る音を聞いたか、ぴんとした背を向けたまま、久秀は小太郎を呼んだ。振り向きもせず、ゆるりと伸ばされた手が秋咲きの薔薇を引き寄せる。
「知っているかね。秋の薔薇は香りが強い」
小太郎の裡に、何の感慨も無いことを知ってか柔らかな笑みを含んだ口調でそう言って、久秀はぽきり、と薔薇の細い枝を折った。手の内に、大輪の花が残る。
「───己が主を、討った気持ちは、どうだ」
半身を返し、瀕死の太陽に輪郭を赤々と照らされながら、久秀は優しげに笑う。
「卿の事だ。首尾良く、討ち果たしたのだろう? まさか、取り逃したと言う事はあるまい」
小太郎は無言で、久秀を見詰めた。波立たぬ躯の裡の何処か、鳩尾の近く、少しばかり左側、恐らくは心の臓の裏側辺りの筋肉が、ちりと蠢く感触がする。
小太郎は思わず掌でその、鳩尾の横を押さえた。普段は僅かにしか触れぬ脈が、どくどくと、乱れた鼓動を返す。
その仕種に確信をしたか、久秀は満足そうに息を吐き、それから薄らと呆れ顔で微笑んだ。
「やれやれ……卿は矢張り、獣だな。己が望みも知らぬらしい。頭の足りぬ、畜生らしい生き様だ」
だが、と言葉を切り、久秀はつと持ち上げた薔薇の香をゆったりと嗅いだ。
「声が──欲しいのだったか」
そうだ、聲だ
此の男は、聲をくれると言ったのだ。欲しいか、等と問われなければ、思う事など無かった事だ。己に、獣の欲以外の欲が、備わる等。
途端ひりつく喉に、小太郎は薄く唇を開いた。閉じていれば判らぬのか、大抵の者が驚く大きく裂けた口の合間から、尖った歯と血の塊の様な赤い舌が覗く。ひう、と、裂け目じみた唇から、木枯らしの様な音が洩れた。
久秀はまるで構わぬ仕種で、指先の薔薇を愛でている。
「まったく……卿は愚かだな」
己への評価など、小太郎の魂に響く事はない。元より、己は心など無い生き物だ。波立つ心など無い剥き出しの魂は、確かに獣のものだろう。
しかし掌の下の鼓動が、その獣の魂を酷く揺さぶる。
はあ、はあと乱れた息を吐き、兜の下で滲み出た脂汗が不快に流れる。早くなる鼓動に押し出された血潮の巡る肉は熱いが、躯の表皮と芯が、痺れる様に冷えた。
早く早くと急かす様に、指先が意志に反して足掻く。喉奥から突き上げる衝動は叫びだ。しかし咆哮を上げる声はない。
「…………、」
「ふふ、」
微笑ましいものでも見た様に、久秀は小さく声を上げて笑った。
「良く、考えてみたまえ。卿は今でも、声が欲しいと思っているのかね」
小太郎は僅かに顎を引いた。己は獣の魂しか持たぬが、しかし知恵は人のものだ。ひとの言葉を解し、獣の直感で、ひとの技を使う。
だが、久秀が何を言わんとしているのか、それが未だ判らない。
聲、だ
聲が欲しい
その為に、少し前まで留まっていた土地の、一軍を滅ぼした。力弱い斜陽の一族は、愚かにも久秀に楯突いたのだ。小太郎には彼等が何故攻め入って来たのか、その理由は判らない。しかし判らぬまでも敵を滅ぼす、それが小太郎の役目だ。
───何をしている、風魔、と
金切り声を上げた老国主の、怒りに眦を吊り上げた貌が脳裏に明瞭に浮かんだ。
無口な忍びよの、と
「────、」
ひい、ひいと、出ぬ声が喉につかえて息までも詰まる。開いた口からぽとりと唾液が落ち、押さえた喉もまた、厭な汗に濡れている。幾人屠っても汗一つ掻かぬ装束の下の躯が、今は脂汗にびっしょりと湿っている。
がりり、と喉を掻く。爪の合間に皮膚が詰まる。
「ほら、どうだ。もう声など要らぬだろう?」
無口な、
忍びだと、主が言うから、
「────あ、あ、あ、あ!」
ひび割れた咆哮が喉奥で鳴った。久秀の瞳が驚きに丸く開かれ、其れから酷く満足げに酷薄な笑みを浮かべる。
「声を得たか」
満足かね、と嘲る笑みにかあと眼前が鮮血の色に染まった。日没近い夕焼けの、最後の閃光が全て兜で目深に隠した目に突き刺さったかの様だった。
何事か叫ぶ声は狂った獣そのもので、言葉などでは到底ない。しかしそれで構わなかった。最早言葉などは要らぬ。
久秀の言う通り、聲ですら、もう。
ばし、と鈍く弾ける音を立てて黒い風と化した己の凶刃を、一撃ばかり久秀は止めた。
だが、悪魔と呼ばれる己に人如きが敵う筈もない。
漸く一族が追い付いて来た頃、そこかしこに屍を残したまま、その長たる黒い風は姿を眩ましていた。
20080911
文
虫
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