渇望は潰える事が無い。
真っ黒な底の見えない穴からは、死者の嘆きの音を伴う風が吹いている。その冷たいとも温いともつかない風に長い白髪を靡かせて、光秀はあはは、と喉奥から笑いを洩らし、それから唇を吊り上げた。笑みの後を追った表情で、吹きながらも吸引するその暗黒が、己の裡に在るのを見ている。
暗黒は光秀を越えて広がり周囲に黒い光を広げ、それを見渡して己が裡を顧みればまた、そこには暗黒の穴が風を吹かせているのだ。
分離しているのか、同化しているのか、疾うに呑まれているのかそんな事は判らなかったしどうでも良い事ではある。が、兎に角、己がその暗黒の香を心地良く呼吸する者であると、しかし吸って、吐く、わざわざそんな真似をせずとも最早肺の隅々、血の一滴にまで染み通った存在であると、それは確かなのだろう。
暗黒の名を、虚無と言う。
何処かも知らぬ所へ、幾多の血と魂を幾ら吸い上げても乾く事を知らぬ欲に、光秀は戦慄する。それは甘美な震えだ。
嗚呼、と喉を鳴らして己を抱き、陶然と天を仰ぐ。古い木造物の合間から覗く何とも言えない色の空はしかし、直ぐに闇に満ち、やがて懲りもせずに朝を迎える。
幾晩闇を迎えその圧倒的な暗黒に天を陵辱されても翌朝には素知らぬ顔で上り詰める太陽は、己が分身、己が妻である月の痴態を糧に、夜の裏側で自らを慰めるに忙しい。
欲しい欲しいと追い詰めて上らせて、けれど決して手に入らぬ妻の闇夜の美しさを、しかし手に入ってしまえば喰って仕舞いだ。夜の空から月は消え、細々とした淋しい星の死んだ光が瞬くのだろう。
「嗚呼、それはそれで魅力的です」
そうでしょう、ねえ、とゆらりと愛器を振り遠心力に任せて顧みれば、姿勢正しく立ったままの、壇上の男が微笑んだ。
「卿は、意外に詩人だな」
「そうでしょう」
うふふ、と光秀は歌うように笑った。ゆうらりと痩身が揺れる。すると出された足は、けれど上体の不安定な揺れとは裏腹に、緩慢ながらも真っ直ぐに歩む。狂人の色をして、それは擬態ではなく芯からのものだというのに、しかし光秀の目は冴えた光を凝らせる。
はあ、と光秀は歓喜の溜息を吐いた。
「嗚呼、お可哀想そうに!」
かん、と古い床を凶刃が叩く。
「貴方は、飢えてしまったのですね」
久秀は柔和な笑みを浮かべた。かつて織田にいた頃と、何一つ変わらぬ穏やかな笑みだ。
思えば彼の頃から、久秀は飢えていた、と光秀は思い出し、つと人差し指を唇へと当てて、首を傾げた。
「………残念です。信長公のお側にいれば、貴方もまた……欲の喜びを取り戻せたかもしれないと言うのに」
そうだ、此の男はかつて欲界に身を窶していたのだ、と光秀は己の知らぬ過去か過去世かを直感して、くすくすと笑った。ふわりと広げた両腕にある愛器が、風切り音を立てて、びたと止まる。久秀が微笑んだ。細身に見えて、此れだけの得物に振り回される事なく操る膂力に、喝采でも送ろうか、と言う顔だった。けれど久秀はそれをしない。無駄な事は、此の男はしない。
生きる事そのものが、無駄であると知っている癖に。
「愉しいのに」
「無論だ」
「けれど貴方は満足しない」
「卿が、満足しているとも思いがたいが」
「無論、です」
口調を真似て、光秀はまた一歩踏み出す。
「欲しても欲しても未だ欲しい……欲の味は甘美ですよ。嗚呼……本当に残念だ。此の甘露が、無味としてしか感じられないなんて、貴方」
光秀はぬうと身を乗り出して、囁いた。
「生きている価値もない」
言って、あはは、と哄笑すれば久秀はくく、と喉を鳴らす。
「卿こそ惜しいな」
「ふふ、私を虚無へと追い遣って、不抜けた屍を眺めて、貴方が満足するならば」
光秀はく、と丸めていた背を正した。壇上を見詰める。
「欲しがれば良いのですよ、松永弾正久秀」
それで貴方が虚無の暗黒に更に塗り潰されて往くのなら
「嗚呼……! なんて甘美! なんて甘露! あはは、私、達ってしまいそう………」
おん、と振り回した愛器が空を切り啼いた。
魂の隅々までも虚無に塗り潰された生者はただ笑んで、つと持ち上げた指を、ぱきん、と鳴らした。
20071226
文
虫
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