あんた趣味悪いねえ、と転がされた男が浅く息の切れた口で皮肉げに言った。
「おや、もう口が利けるのか。忍びと言えば風魔と思っていたが、甲賀者も大した物だ、いや感心」
先日蒐集を果たした伝説の名を出し、ゆるりと振り向き肩越しに笑んで見せれば、忍び装束を切り刻まれ、足の合間から血と精液を垂れ流したままの男は短く嗤う。右肩が外れたままきつく後ろ手に縛られた腕が、薄暗がりにもはっきりと判る程に腫れ上がり、蒼醒めた顔の中の双眸だけが熱く潤むのも、先程まで金を掴ませた乞食共に犯させていた名残ではなく、傷の為だろう。
「こんな事で、俺様がどうにかなるとでも思ってたってんなら、甘く見られたもんだね」
陵辱の最中も悪態と皮肉を忘れなかった男の強がりを模した軽口に、久秀は肩を竦めた。此の男の口から吐かれるどの言葉も、半ば真実、半ばが虚構だ。
「何、此の程度でどうにかなる様なら、卿も所詮はその程度の男、と言う事だ。何一つ、意味など無い。唯の余興、暇潰しだよ」
退屈はしなかっただろう、と微笑んで、久秀はゆっくりと踵を返し、男へと近付いた。ざり、と草履の下で半ば土と同化した古い床が鳴る。
下ろした剣の切っ先が、かち、と男の鼻先に置かれた。
「卿の心の光を潰えすに、卿を侮辱した所で仕方があるまい。卿の誇りは、其処には無いのだからね」
「意味が無いなら、止めて欲しいんだけどねえ……」
「何、暇潰しだと言っただろう。意味の有る事など、此の世にどれだけ有ると言うのだ」
有意義な時間を過ごせた筈だ、と微笑めば、男は顰め面を見せて溜息を吐く。
「……何がしたいの、なんて、訊くだけ無駄か」
「そう嘆くな。卿の為に、楽しい余興を用意させて頂いた」
「へえ……そりゃ、有難くないねえ」
男は警戒の火を瞳の奥底に揺らめかせ、皮一枚にばかり乾いた笑みを貼り付かせた。久秀はつと刃を返し、ひたと顎に当てる。
「卿は……平坦な男だな。何を奪おうが、卿から光は奪えまい」
だから与えよう、と言えば、男は怪訝に眉を顰めた。
「何をくれるって?」
微笑すれば、男はますます警戒を深めた様だった。
久秀は引いた刃を持ち上げ、己の掌の上に置いた。腰にあるもう一本も、蒐集した様々な銘刀も、どれも此れの代わりになどなれない、唯の剣だ。何の魂も無い唯の無機物は、幾ら血を吸おうとも怨念すら宿らない。
心の無い、無機の黒。
「………卿の主が死ねば、卿は怒り狂うだろうか」
「おい、あんたまさか」
「私を怨むかね。私を殺すか?」
「真田の旦那に、何を……!」
「何も」
未だ、と続けて久秀は男を見下ろす。男の色の薄い目の中心が、きつく縮んで久秀を睨み上げている。
「そんなに怖い顔をしないでくれ。何もしてはいないし、此れからも、虎の子など獲る気はないよ」
「…………」
「信じていないと言う顔だ……悲しいな。此れでも私は誠実なつもりなのだが」
くく、と喉を鳴らし、久秀は腰の後ろへと手を置いた。
「卿の主の命など興味はない。しかし、大虎の牙は、頂こう」
瞬間、ざり、と酷く床を擦る音を立てて縄を打たれ、陵辱の限りを受けた躯が跳ね起きた。反射的に飛び退けば、文字通り牙を剥いた男は喉を狙った勢いのまま再び床へと倒れ伏す。酷い音を立てて抜けた肩を打ち付けて、男のくぐもった苦痛の声が本堂へと響いた。
「驚いたな。その形で動けるのか……面白い」
「大将ッ、に……、何を!!」
「何、少々腑抜けて頂いただけだ。命までは獲ってはいないが……まあ、運が悪ければ、そのまま流転輪廻の業に堕つる事もあるか」
「───糞ッ、大将……!」
がつ、と額を打ち付け、満足に動かぬ足で無理に地を蹴る姿に唇の端を吊り上げて、久秀は薄く嘆息した。
「やれやれ、怒らせてしまったな」
卿の主もそれは酷い剣幕だった、と甘言の様に囁けば、当たり前だと睨まれた。久秀は笑みを深める。
「実は既に、表へと卿の主が兵を率いてやって来ている」
「………、」
「それなりの準備はさせて頂いたが……まあ、心配するな。虎の子が余程の虚けでなくば、罠がある事など承知だろう。私は殺されるかもしれないな」
低く、喉奥で呻く様に男が問う。
「あんた、何を考えてる……?」
「幾度か、告げたと思うがね。卿の光を頂きたいと、そう思っているのだよ」
「旦那に手を出したら、」
「卿の光は主ではあるまい」
男は口を噤んだ。無意識的に何もかも自覚をし、意識的にそれを流す事で世を渡る平坦な男は、指摘を受けて自覚を認識したのだろう。此の男の光は想いを抱く他人ではなく、けれど光をもたらすのは人だ。
「虎の子は私を殺し、仇を討つだろう。けれどその後は、どうだ」
男の目が見る見る色褪せていく。僅かに揺らいだ視線は動揺を隠さず、噤んだ色のない唇が、ますます蒼い。
「縋る寄る辺を無くして、卿の主は陰る。絶望に侵され、怒りに満ち、卿の言葉も聞かぬかも知れぬな。彼れの世界には、大虎しか要らぬのだろう」
「……あのお人は、大将が見込んだお方だ。あんたが思う程、弱くは無いぜ」
「そうかも知れんな。直に立ち直り、立派な武将に育つかも知れん。だがその時、卿へ光をもたらしてくれるか、どうか」
陽の塊もまた、二度と拭えぬ闇を容易く纏うものだと知って。
「凡愚に成り下がった主に、卿が価値を見出せるかどうか」
男は静かに息を吸った。慎重な呼吸を、けれど発熱した躯は容易く裏切り惨めに喉が鳴る。
「───そんな事の為に、あんたは命を賭けるのか。たかが忍びの進退、しかもあんたは、結末を見る事なんか出来ないってのに」
「何、僥倖、僥倖」
久秀は古びた大仏像をつと見上げ、黴の臭いの漂う古の空気を吸った。
「それもまた、些末な事。いずれ人は皆、死ぬ」
足下の男が、小さく歯軋みをした。
20071224
文
虫
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