「あれっ、あんた、真田のとこの忍びだろ?」
 ふらふらと店先を冷やかして歩いている様な目立つ橙の髪に、これまた目立つ周囲から頭一つ抜きん出た美丈夫が目を丸くして手を振った。
「久し振りだなあ。って、どうしたのその顔。男前だね」
 どうもお、と気の抜けた返事を返してへらりと笑った赤く腫れた頬を示して言えば、忍びはいやあ、と頭を掻いた。
「ちょっと女に振られてさあ。旦那に怒られちゃって、ちょっとほとぼり冷めるまで、出て来ちゃった」
「怒られたって、何で」
「みっともない! 何故避けぬのだ! てさ」
「嗚呼、言いそうだね。でも、避けたりしたら女はさ、」
「そうそう。またむきになられても、つまんないしね」
 漸く気の合う相手に会えたとばかりに大仰に溜息を吐いて見せて、軽く頭を振り、それから佐助はちょい、と向かいの飯屋を指差した。
「ちょっと一杯、付き合わない?」
「俺、腹減ったなあ」
「奢るよ。あっでも、腹八分目で頼むよ! 俺様、そんなに懐あったかい訳じゃないからさ」
 判った判った、と頷いて肩を組みぐいぐいと店へと連れ込むと、ほんとに判ってんの? と訝しげにしながらも佐助は暖簾を潜り、逆さにした醤油樽に腰掛けた。
「親爺さん、酒と、此のお人には飯もね。おまけして頂戴」
 はいよ、と笑った親爺の目が見た目よりも遙かに若くきらりと光ったのを目に留めて、慶次は机越しにそっと佐助に顔を寄せた。
「あの爺さん、あんたのお仲間?」
「目敏いね」
 表情を崩さず口元を殆ど動かさずに言って、でも、馬鹿だねえと笑い、佐助は目を伏せたまま、軽く口元を拭う仕種をした。
「そう言うのは、言わぬが花、見ぬが花だよ」
「そう言うもんなのか?」
「そう。思うだけなら良いけどね、思った事を悟らせちゃあ、命取りだよ。特に俺なんかにね」
「あんたは悪い奴じゃないよ」
「嬉しいね。そりゃ、あんたの事は嫌いじゃないけど、敵には好きも嫌いもないからね。それが忍び」
 信用するもんじゃないよ、とにこりと形だけ笑みめいたものを返して、佐助は先に運ばれて来た銚子を取り、慶次の前にこんと設えた猪口に注いだ。
 ふん、と軽く顎を引き、ぐいと猪口を空にしてそのままもう一つの猪口は使わず、佐助の前にこんと返し、慶次は酒を注ぐ。
「ご返杯」
「言っとくけど、毒なんか盛っちゃいねえよ」
「無粋な事言うもんじゃねえよ。それこそ、言わぬが花だろ」
 良いからほら、と勧めれば、軽く肩を竦めて佐助はなみなみと注がれた酒を飲み干した。
「よっ、好い飲みっぷり!」
「そりゃ、どうも」
 何度か杯を重ねている内に運ばれて来た飯をあっさりと平らげ、二杯目を茶漬けで流し込んで、慶次は手酌で呑んでいた佐助に手を合わせて頭を下げた。
「ご馳走様!」
「はい、お粗末」
「旨かった!」
「田舎の飯屋だ、前田の奥方の足下にも及ばねえだろうけどな」
「まつ姉ちゃんの飯はそりゃあ絶品だけど、だからって旨いもんがまずくなる訳じゃあないよ」
「なら良かった」
 赤く腫れた頬に頬杖を突いて、行儀悪く片足を組んだまま緩く笑みを浮かべる色の薄い目が、少しばかり眠気掛かって、とろんとしている。
「何だ、酔ったのかい?」
「そうだね、ちょっとね。元々今日は、一日寝倒すつもりで暇を貰ってたもんだからさ」
 こないだまで忙しくって、ろくに寝てなくて、と欠伸をした佐助に、ははあ、と慶次はにやりとした。
「女のとこで寝ようとしたのに振られるわ、帰れば主に叱られるわ、それじゃあ散々だったなあ。帰りに籤でも引いてきなよ。あんた今日は、大凶だ」
「ついてないって確認して、どうすんの」
「何言ってんだ。大凶の籤は、お守りなんだぜ。そっから先は、良くなるばっかりだ」
 へえ、そうなの、知らなかったな、とぱちぱちと瞬いた佐助の前の猪口に、慶次は酒を注いだ。
「で、どんな娘だったんだい?」
「は?」
「あんたの、好い人だよ」
「嗚呼……別に、好い人って訳でも、無いんだけど」
「何だ、好い人でもないのに、寝に行ったのか。そりゃ、引っぱたかれても仕方ねえよ」
「いやいや、そう言う訳でも無くって、なんって言うか、」
 俺様が好きな女は、俺の事嫌いなんだよねえ、と溜息を吐いてぱたりと瞼を閉ざした佐助に、慶次は何だそりゃ、と首を傾げた。
「詰られんのがいいとか、まさかそういう趣味」
「違うよ。気の強い女は嫌いじゃないけどさ、そうじゃなくって」
「どんな女が好きなんだ?」
「どんなって……まあ、見た目は綺麗に越したこたないけど、どっちかと言うと中身がさ、真っ直ぐで、綺羅綺羅しててさ、どっか世間摺れしてないっていうか、染まらないっていうか……」
「へえ。良い趣味だね」
「うん、まあ、そうね。でもそう言う娘って大概が、いい加減なのは嫌いだからね。俺様なんか、いい加減の見本みたいなもんだしさ」
「別に、いい加減だとは思わないけどなあ。あんた、苦労してるだろ」
 はは、と笑い、佐助は片目を細く開けた。
「そう言うのは、男ばっかだね」
「そうなの」
「うん。真っ直ぐで、好ましくって、綺羅綺羅しててさ、そういうのも男だと、結構、俺様を買ってくれんのよ。旦那とか、あんたとか」
「真田は、あんたを好きそうだね」
「そうだねえ。有難い事に、片腕とまで、言って頂いてますよ」
 再び目を閉じ、軽く俯く様にしてふふと笑った佐助の、溜息の様な声が僅かに声色を和らげたのに気付いて、ふうんと慶次は唇の端を緩ませた。
「んじゃあ、早いとこ帰って、機嫌取りなよ」
「何だ、食うだけ食ったら、お役御免って事?」
「違うよ。好い人のとこに帰んなって、そう言ってんの」
 嫌な日なら尚更、と真っ直ぐに見詰めれば、佐助は困った様に眉尻を下げて苦笑した。
「そのお人に叱られて、出て来てるんですけどねえ」
「あんたを思ったから、叱ったんだろ。まあ、そりゃ、片腕がほっぺたにくっきり椛の跡なんてのは格好付かないってのもあるんだろうけど、でも、俺が見たって痛そうだ。それ、まだ腫れるよ」
「まあ、後で冷やすよ。それより、風来坊。人の事に口出ししてる暇があるんなら、あんたも家に帰りな」
「それと此れとは別の事だろ?」
「好い娘は? いないの」
「ん、まあ……それは、いいだろ」
 ぽんと肩を叩いて立ち上がれば、ふうと軽く息を吐いて、佐助は親指で唇を拭いながら続いた。
「親爺さん、勘定置いとくよ」
 仲間だろうに律儀に声を掛けて、佐助はどことなくふわふわとした足取りで先に立って暖簾を潜る。
「城に来るかい、風来坊」
「ん、今日はよしとくよ。幸村、機嫌が悪いんだろ? 俺までとばっちりじゃあ、割に合わないや。また日を改めて遊びに行くよ」
 そっか、じゃあね、と宿泊先を訊ねる事もせずに、千鳥足というほどでもないが心持ち覚束ない、ゆっくりとした足取りで去って行く佐助の道の先から、ふいに騒がしい気配が近付いた。
「佐助ぇ!!」
 怒鳴り声に、慶次は唇の端を上げて、ははっ、と声を立てて笑う。
 あっと言う間にやって来た上田の若君は、橙頭の忍びを掴まえて頻りに何か言っている。叱っている様にも見えたし、心配している様にも見えたが、迎えに来たに違いは無いだろう。
 その幸村が、ふいに此方を見、大きく手を振った。
「慶次殿!! 佐助がお世話を掛け申した!!」
 いいよ、気にすんな、と叫び返し、慶次は手を振って踵を返した。その背に騒ぎは起こさないで下され、と丁寧なのか無礼なのかちっとも判らない声が投げられて、慶次は小さく肩を竦め、小走りに路地へと飛び込んだ。
 
 
 
 
 
 神出鬼没の風来坊の姿が見えなくなって間もなく、先程までとろりと酔いに濁っていた目をすっきりと細め、佐助がやれやれと肩を竦めた。その頭上を屋根づたいに素早く影が過ぎて行く。
「旦那に告げ口したのは、才蔵? 俺が呼んだのは、彼れの目付だったんですけどねえ」
「告げ口では無い。聞き出しただけだ」
 だから叱ってやるなと笑った顔は、鋭く眦が吊り上がり、燻る炎を揺蕩らせた目は全く笑っていなかった。
 幸村は佐助の腕を取り、ぐいぐいと引いて城へと歩き出す。
「旦那、怒ってんの」
「その頬の失態については、まだ赦しておらぬ」
「いや、そうじゃなくって、前田の風来坊といた事がさ」
 半面振り向いた顔はまだ眦を鋭く尖らせたまま、表情ばかりきょとんとあどけなく、佐助を見た。
「何故だ。動向を見る為に、引き留めただけであろう。お前の仕事だ」
 僅かに言葉を切り、そうですか、と頷いて、佐助は再び腕を引いて歩き出した主に、黙して続いた。

 
 
 
 
 
 
 
20070615