「慶次殿。頭が凄い事になっておるぞ」
 通り掛かった座敷の開け放たれた障子の向こうの縁側に、どっかと胡座を掻いて庭を眺めていた広い背を見付けて、幸村は何故此処に居るのだと問う前にその惨状に声を上げた。ん、と片手を板間に突いて半身ごと顧みた慶次は、白虎模様の籠手を嵌めたままの手で、ぐしゃりと髪を掻き混ぜる。
「竜巻に遭っちまってさあ」
「竜巻など、お主は何時でも巻き起こして歩いているではないか」
 鼻を鳴らし、幸村は暫し待てと言い置いて自室へととって返し、目当ての物を持って再び慶次の元へと戻る。
「あれ、梳いてくれんのかい」
 手の中の黄楊の櫛を見、慶次は目を丸くした。幸村は大雑把な手付きで此方を向いたままの慶次の頭を押し遣り、庭を向かせて膝を突く。
「髪くらい、己で梳いて結い直せば良かろうに」
「いやあ、此れから湯屋に出掛けて、其れから髪結いのとこにでも、行こうと思ってたんだけど、」
「ならば城まで来ずに、城下へゆけば良かったのではないか。何故此処におられるのだ。つむじ風の話など、届いておらぬぞ。城の近くで遭ったわけではあるまい?」
 言い乍ら括り紐を解くと、髪結いの為のものとは思えぬ程幅広で長いそれが、しゃらしゃらと微かな音を立てた。
 此れで綺麗に括るのはなかなか難しそうだと考えながら、幸村はぐらと揺れて落ちた髪飾りが板間に当たる前に掌で受けた。ざら、と羽根飾りに付いた砂が零れる。よくよく見れば、随分と草臥れている様だ。
「此れも、手入れをしてやれば良いものを」
「なんだい。朴念仁の癖に、そういう小物は、好きなのかい?」
「小物なものか。大鷲の風切り羽であろう。此れ一本に、大鷲一羽の命。大層な物を飾っておるものだと、思うておった」
 ふうん、とちらと横顔に覗いた口元が、緩く笑った。
「良く判るもんだねえ」
「前田の兵は山育ちと言うが、野山を駆けずり回ったと言うなら、某もそうだ。山の獣が珍しい訳もない」
 そうか、と楽しげに肩を揺らして、慶次は首を巡らせて傍らに置かれた髪飾りに手を触れた。
「まつ姉ちゃんに貰ったんだよ。矢にでもしろって言われたんだけど」
「前田の奥方の、鷹のものか」
「そう。戦で死んだ奴の───風切り羽は、綺麗に残ったし、雛の頃から俺が餌あげて育てた奴だったから、今度は貴方を守ってくれますよって言って」
 幸村は溜息を吐き、赤茶けた色に光る黒髪を掬った。
「ならば尚更、大切になされよ」
「そうだね。御免」
「某に謝っても仕方がなかろう」
 うん、と楽しそうに揺らされた肩を叩いてじっとしていろと諌め、幸村はそっと豊かな逢髪に櫛を入れた。
 乾いているのに瑞々しい細い茎の様に手に馴染む腰のある髪は硬いが、幸村と違って真っ直ぐではなくて、癖が強くうねっている。此れが、結い上げれば風に吹かれ縺れて、何とも言えぬ風情で靡くのだ。
 ざり、と櫛の歯が砂を擦り、幸村は眉を顰めて指を差し込み、わさわさと乱暴に髪を混ぜた。ばらばらと砂や小枝が落ちる。竜巻に、と言っていたのも、あながち嘘でもない様だ。
「痛えって」
「我慢なされよ」
「あんた、人の髪なんか、結った事があるのかい?」
「己の髪もろくに結えぬが」
「は?」
「前を向いておられよ」
 ぱっと顧みた頭をぐり、と再び庭に向かせ、幸村はもう一度櫛を差し込んだ。時折引っ掛かる髪を、軽く解しながら梳く。しなやかな髪は見た目ほどには縺れてはいない様で、さほど喚かせる事もなくするすると梳いていくと、程なく周囲が砂だらけになった。
 幸村は櫛の背を咥え、両手で長い髪を持ち上げた。不器用な指で後れ毛を幾度も掻き上げる。
「痛、痛いって」
 文句を無視し前屈みに逃げる頭を髪を引いて止め、何とか全ての髪を高い位置へと上げて長い括り紐を手に取り、其れからちらとその光沢のある表面を見て、幸村は眉を顰めた。此れで括れるとは思い難い。
 幸村は櫛を咥えたまま、己の髪紐を解いた。ろくに結えはせずとも、己で結った事がない訳ではない。馴染みのある髪紐の、長さと固さを確かめて、幸村はもさりと多い髪を括りに掛かった。
「あれ、ねえ、ちょっと。何で結わえてるんだい?」
 俺のこっち、と極力頭を動かさぬ様に括り紐を示した慶次に無言のまま、幸村はぎり、と髪紐をきつく結んだ。手を離し、咥えていた櫛を懐へ納めて、仕上がりを眺める。
「緩いで御座るな」
「うーん、」
 慶次は懐から手鏡を取り出した。女子の様だと見ていれば、ちょいちょいと乱れ跳ねたままの前髪を弄り、顔を右へ左へと向けて髪を見ていた慶次は、あはは、と笑って手鏡を仕舞い、両手を砂だらけの縁側へ突いて幸村を顧みた。その拍子に、緩んだ髪がぐらと揺れる。
「いやあ、上出来、上出来。ありがとな!」
 全く上出来でもない頭を見ながらそうかと頷いて、幸村はふと庭先に目を遣った。
「風来坊。お湯の準備出来たから、って、あれ?」
 ひょこと顔を覗かせた下働きの様な姿の忍びは、幸村の姿と先程とは違った意味で酷い頭の慶次を交互に見、それから肩を竦めた。
「何だ、見付かっちゃってるし。見付かるとは思ったけど」
「佐助が慶次殿を通したのか」
「うーん。門番と立ち話してるとこに行き会ってさ。旦那に挨拶したら湯屋に行く、とか言うから、上がり込む前に風呂使ってよって言ったの。どうせ断ったって、どっかから入って来ちゃうんだもん。追い返して、城下で騒ぎ起こされても面倒だし」
 砂だらけで座敷になんか上げらんないでしょ、とやれやれと首を振って、佐助は腰に手を当てて慶次をまじまじと眺めた。
「で、その惨状はどうしたの、風来坊。鬘がずれた下手な女形みたいになってるけど?」
 あまりの言い種に深々と溜息を吐いて、幸村は腹を抱えて笑い出した慶次の頭から己の髪紐を何本かの髪の毛と共に乱暴に引き抜き、痛い酷いと喚かせた。

 
 
 
 
 
 
 
20080525
花言葉/堅固・堅忍・克己・禁欲主義・淡白・冷静