ぽっくりぽっくりと音のする呑気な足取りで愛馬を歩ませながら、その背の上でなおざりに緩い手綱を握り片胡座を掻いていた慶次は、晴れた空を見上げてふっと思い付き「あ、」と声を上げた。肩口に同じ様に片胡座を掻いていた夢吉がくり、と横顔を見上げる。
「なあ、夢吉。虎のおっさん、未だ見てないよな」
きき、と小さく鳴いた子猿に、だよな、お前も会ってないよな、と頷き、慶次は妙に神妙に腕を組んだ。武田領には幾度となく立ち寄っていると言うのに蕎麦を食うだけで通り過ぎていたとなると、これは由々しき事態だ。そもそも慶次は上田に居る真田の主従ではなく、甲斐の虎を見たくて武田領を目指したのだ。真田の主従を訪ねるのも楽しいが、謙信への土産話とするならやはり虎が良いだろう。美味い酒の代価に、たまには上等の土産を携えてもいい。
「て言うか、上田にはいないんじゃないのか、虎は」
根本的な問題に漸く気付いて、慶次はざくざくと豊かな黒髪を掻き混ぜた。縺れる様に靡く逢髪と羽根の髪飾りが揺れる。ひら、と何処から付いていたものか、綺麗に形を保ったままの赤茶に枯れた椛が落ちて、それをつまみ上げてくると回し、慶次は気を取り直してにっこりとした。
「まっ、そういう事なら、甲斐に行けば良いんだよな。戦が起きてるって話も聞いてねえし、なら甲斐にいるんだろ」
甲斐には何があるんだったか、ほうとうだっけ、楽しみだな夢吉、と肩の子猿に笑い掛けて、慶次はほとんど手に引っ掛けていただけだった手綱を取って馬首を返した。
20071126
文
虫
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