「幸村ぁ……!」
 間延びした語尾を引き摺って響いた声に、幸村はふと立ち止まり振り向いた。途端駆け寄ってきた人影がどかんと抱き付いて、顔面に柔らかな物が押し付けられる。
「久し振りだなー! 元気してたか?」
 ぎゅう、と抱き付いた温かな其れが想い人だと気付いて、慶次殿、と腕を上げ、幸村ははたと視界を塞いでいるものの正体に気が付いた。ぐわ、と血が顔に上る。
「け、け、け、慶次殿!! おっ、往来で何を!!」
「ん? あ、苦しかったか? ごめんごめん」
 からからと男の様に笑って、慶次は幸村の肩を押し遣りふくよかな胸を離した。幸村よりも頭一つ半も上から、大きな目をきらきらと細めて、首を傾げる様に笑う。
 花が零れる様だ、とうっかり見蕩れ掛けて、それから幸村ははっとした。
「ごめん、ではござらん!! 慶次殿、そっ、そうそう男に抱き付くものではござらぬぞ! 貴女はもう少し、恥じらいと言うものをですな、」
「おっ、佐助」
「き、聞いておられるのか、慶次殿!!」
「佐助ー!」
 控えていた忍びにどっか、と先程の幸村へと同じ様に抱き付いて、頓狂な悲鳴を上げつつ振り解かない(振り解けない、のだと信じたい)橙色の頭にぐりぐりと懐く慶次に、幸村は声を荒げた。
「慶次殿!!」
「だって久々に会ったってのに、小言なんてつまんねえよ。折角食った旨い蕎麦が、まずくなっちまうだろ」
 唇を尖らせて拗ねる慶次に、幸村はくらくらと眩暈のする額を抑えた。
「蕎麦を食う前に先に顔を出しては下さらぬか!!」
「今此処に居るって事は、どうせ城に行ったって居なかったろー」
 ぷは、と胸の合間から顔を出した忍びが、小動物よろしくぎゅうぎゅうと抱き締められながら、恐る恐る、と言った様子で幸村を見た。
「あー、あの、旦那?」
「…………佐助」
「うわ、ちょ、俺、先に戻ってお茶でも準備しとくねー!」
 ゆっくり帰って来てよお二人さん、と言うが早いかぼんと音を立てて腕の中から消えた忍びに、慶次はおお、と感嘆の声を上げた。
「いつもながら、見事だねえ」
「……慶次殿。貴女は某に会いに来たのか、佐助に会いに来たのか、どちらですか」
「いや、蕎麦食いに来た」
「…………。……そうでござるか」
「あと明日には越後に行こうかなって」
「え、越後!?」
「謙信とこの酒が、そろそろいい筈なんだよ」
 へへ、と笑ってくいと酒を煽る仕種をした慶次に、そうでござるか、と幸村は肩を落とした。無理に引き留めれば機嫌を損ねて、下手をすればすぐにでも逃げられてしまうのは経験上よく判っている(悲しい事に)。
「どうしたんだ、幸村。元気ないな?」
 溜息を吐く幸村の顔を覗き込む慶次を見れば、豊かな髪がふさりと背を滑り肩から落ちる。ぱちくりと目を瞬かせる幼い仕種は、文句なしに愛らしいものだと幸村は思う。
 何にしても、久々の訪問には違いなく、そう城を空ける訳には行かない身としては、慶次の気紛れを待つより他ないわけで、落ち込んでいても損するばかりではある(太平楽な考え方は、目の前の春風に教わった)。
「何でもござらぬよ」
 そう、苦笑の様に笑えば、ふうん、そっか、とにこりと微笑んだ春風は、ぽんと幸村の肩を抱いた。この先どれだけ背が伸びたとしても到底埋める事など出来そうにもない絶望的な身長差により、幸村が肩を抱いてやる、等という芸当は出来ない(そうで無くとも往来で女人の肩など抱けないが)。
「じゃ、行こう! 佐助の茶も楽しみだなー」
「……慶次殿は、楽しみが多くていいでござるな」
「だろ? あんたももっと楽しく生きなきゃ」
 なっ、と笑った慶次にそうでござるな、と苦笑で返して、幸村は取り敢えず手を繋ぐため、肩を抱く腕を外しに掛かった。

 
 
 
 
 
 
 
20070705