敗残兵の駆逐に走り回る自軍の兵の合間を縫って、佐助はひらりひらりとかわして退却してしまった慶次を追い、一人先へと駆けて行った主を探した。
焦げて落ち掛けた吊り橋を危うげ無く渡り、立ち尽くす赤い背にほっと頬を緩ます。それから、ふと眉を顰めた。
幸村は俯いたまま動かない。足下に横たわる遺骸は、頬や額を煤と血で汚し、けれど少しばかりの血に汚れた唇の端に桜の花弁を乗せたその顔は、穏やかに眠っているかの様だった。薄く口元に笑みを含み、緩やかに目を閉じ、眉に険の残る事もない。散らばった髪にも沢山の花弁が付いて居た。
ただ、大の字に倒れたその躯は血に濡れて、地面を濃い褐色に変えて居る。息絶えて居るのは間違いが無い。
しかしそんな穏やかな顔の骸を前にして、幸村の背はびりびりと膚が震える程の殺気を放ったままだ。
声を掛けるのも憚られて、佐助は立止まった。俯いた横顔は目を瞠ったまま慶次を睨み据えて居る。まるで鬼の形相だ。
ぞ、と背筋を這ったものに僅かに身震いしたとき、幸村が動いた。ぐっと奥歯を噛み締める様に唇が歪み、振り上げた足が、骸の頬を蹴り上げる。
「旦那!!」
掠れた声は無様にひっくり返り、ほとんど音にはならなかった。けれど慌てて飛びつき其の肩を掴んで慶次の側から引き剥がした佐助に、ゆっくりと向けられた目が酷く、疲れて。
「───佐助か」
「佐助か、じゃないよ! 何、してんの、そんな、あんたらしくない」
もう死んでるんでしょ止めてよ、とぞくりぞくりと込み上げる震えに掠れる声で呟くと、幸村はちらりと慶次を見下ろし、忌々しげに目を細めて、其れからすまぬ、と頷いた。謝罪は佐助へのもので、慶次へのものではない。
「旦那……」
幸村の視線は慶次に落ちたままだ。
この主が、慶次に苛立ちを覚えていたことは知っている。彼れほど恵まれた体躯をして、天性の才を持ち、前田の家に生まれながら、飽く迄市井で生きようとする慶次に、他に感じた事のない焦燥を抱いていた事は知っている。
好悪合わせたそれは嫌悪と一言表すには複雑過ぎて、何くれにつけ明瞭な幸村には、酷く扱い難い感情だったに違いない。違いはないが、けれど死してなお残る程の、其れ程の感情だったとは、知らなかった。
知らず知らずに、腕に沿わせて居た指が、赤い装束を握る。その感触に、ふと幸村が此方を見た気配を感じた。顔を上げることが出来ない。視線の先には骸。
先程まで生きていた、主の殺してしまった骸。
旦那、と震えた声でまた名を呼んで、もう其れ以上は何も言えなくなった。縋る様に装束を掴んだ指はもっと縋りたいのかも判らない。ただ、兎に角、離したくは無かった。けれど遠い気がした。
足下が崩れた様な錯覚がする。膝が笑っている。何に怯えて居るのかも判らない。
「………あ、」
動かずに居る佐助に痺れを切らしたのか、腕が振り払われた。ぞっとする。血の気が引いた。
しかし顔色を無くした佐助がその場から消えるよりも早く、力強い腕が乱暴に背を抱き寄せた。頭を押さえ付けられて、額が肩に密着する。宥める様に、幾度も背を、槍を握ったままの拳が撫でた。
「すまぬ」
溜息に混ぜる様に耳許で囁かれた声が酷く熱を込めて居て、佐助はぶるりと身を震わせ、それから恐る恐る幸村の装束の端を握った。
瞼には血と土に汚れた装束が触れていて、佐助は、慶次の姿を見ることは出来なかった。
20070607
初出:20070108
文
虫
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