「こ、此処に居いたか!!」
ちろ、と上目に眺めてずるる、と蕎麦を啜り、慶次はぱん、と手を合わせて「ご馳走様でした!」と神妙に目を瞑った。それから息を切らせて居る顔に派手に青痣を作った青年を見遣る。
「幸村だっけ? いーい顔になったねえ!」
「ふ、巫山戯るな!! 貴様、彼れだけ城下と言わず城と言わず荒らしておいて、こんな所で呑気に蕎麦など」
「あれれ、こんな所とは酷いなあ。此処の蕎麦、旨かったぜ?」
「そんな事を申している訳ではござらん!!」
「それに俺は貴様なんてんじゃなくって、前田慶次って言うんだ。名乗ったろ?」
「名乗りもせずに暴れまくっていたのは何処の何奴だ!?」
あれそうだっけ、と首を傾げた所へ繰り出された、唸りを上げ熱を帯びた拳をうお、と間抜けた声を上げながら長椅子ごとごろりと土間に転がり躱し、後転してそのまま立ち上がると慶次は「あーあ」と腰に手を当て惨状を眺めた。
「おいおい、店壊す気かよ」
「散々城下を壊したのは、お主だろうが!!」
「何、もう一発殴られたいって? 喧嘩なら買うぜ! 外出ろよ!」
「喧嘩ではないわッ!!」
若いのに血管切れそうだ、いつもこんなじゃ長生きしないよと肩を竦め、慶次は息を荒げている幸村を眺め、鼻を掻いた。背の上着の溜まりに隠れていた夢吉が、ちょろちょろと肩へと上る。
「さ、猿?」
「さっきもいたろ。気が付かなかったのか? あんた目ぇ悪いんじゃないの?」
目を丸くした幸村にからかう声を掛ければ、また怒鳴るかと思われた青年はむっと眉を寄せ、噤んだ口の端を引き下げた。
「精進が足らぬ……」
「は? なんでそんな話になるんだよ」
「夢中になり視野が狭くなるのは悪い癖だと、お館様にも言われておる。もっと広く見る目を持たねば」
今まさに視野狭窄真っ最中らしい青年に面白い奴だと瞬いて、慶次はひっくり返った椅子を立てた。
「お姐さん、お勘定……は、此奴に付けといて」
此奴、と指差された幸村は、ぱちくりと大きく瞬いて、それから判りやすく眉を吊り上げわなわなと慶次を睨んだ。慶次は悪びれずに笑う。
「友達だろ、構わねえよな。今度旨い酒でも持ってくるからさ! 奢ってよ」
「だ、誰が友達だと……!」
「違うのか?」
あの、お代は結構です、と恐る恐る声を掛けた娘に、幸村はぶるぶると震わせた拳を押さえて後で届ける、と低く殺した声で言い置き、ぐいと慶次の腕を掴んだ。その儘未だ成長途中らしい細身の躯に似合わぬ強さで引き摺られ、慶次はおっと、と呟き手を伸ばして表に立て掛けていた大刀を取り、担いだ。
「何、何処に行くんだい? 蕎麦も食ったし、俺、そろそろ次のとこに行こうかなって」
「次とは何だ」
「いや、別にあてはないけど」
「お主には、迎えが来るまで城に居て頂く」
「お、おいおい、ちょっと待ってくれよ! 何だよ、迎えって!」
振り向きもしない幸村は、殺した声で佐助が目覚めたら、と続けた。
「前田に文を遣る。お主、出奔しているそうだな。誰ぞ迎えに来るだろう。大人しく帰るがいい」
「な、何、え、佐助って? さっきの忍びだよな。何だよ、何でそいつが」
「戦場での事なら兎も角、喧嘩と称して退く者まで殴るとは、卑怯千万!!」
半面だけ顧みた目が鋭く睨み、慶次は嗚呼、と呟いて頭を掻いた。そういえば、櫓門の前に降って来た忍びがひらりと身を返した隙を突いて、鞘に収めた儘の大刀で薙ぎ払い吹き飛ばして来たのだった。
彼れは退く所だったのか、と一人頷き、慶次は睨む幸村に頭を下げた。
「ごめんごめん、飛んだり跳ねたり消えたり出たりだったからさあ……。退くとこだって判ってたら、手ぇ出さなかったよ。逃げる奴の尻追っ掛ける程、野暮じゃねえし」
「野暮やら粋やらの話ではない」
「佐助、どんなだ? 怪我、酷いのか? 手応えはあったから、そりゃ無傷じゃねえとは思うけど」
「慶次殿」
飽く迄生真面目に名を呼んで、幸村は踵を半分返して慶次を正面から見据えた。
「彼れは真田の忍びでござる。遊びで得物を振る様な輩に、そう遅れは取らぬ。心配はご無用」
「その割に、あんたえらい目が据わってるよ」
「遅れを取ったは、彼れの不覚。貴殿が口出しする事では無いと申しておるのだ」
「アレ、アレって、ものじゃねえんだから」
「口出し無用と申しておる」
取り付く島もない幸村に、慶次は深々と溜息を吐いた。
「まっ、良いけどね。でも、佐助だって充分強かったよ」
「そうか。伝えておこう」
「いや、別に、自分で言うし。また喧嘩してみてえしな。忍びとやるのなんて、初めてだったから、面白かったよ」
「それも、伝えておこう」
いや、だから、とけんもほろろの幸村に、慶次は肩を落として再び溜息を吐く。
「あー、なんかこう、他人行儀なんだよなあ」
「慶次殿とは親しい仲の訳ではござらぬ。佐助にしても、初対面であろうが。そもそも前田は織田の、」
「あー、そういうの、嫌なんだよね。家がどうの、とかってさ。人と人が出会うのに、敵も味方もないだろ?」
「だから、家を捨てて遊び歩いていると申すのか」
「お家が大事ってのも判るけど、其れで殺し合うなんて、不毛だね。ってか、その慶次殿っていうの、止めなよ」
「は?」
「友達だろ? 慶次でいいよ。ほら、言ってみろって、簡単だか……」
ぶつり、と音を錯覚する程だった。
幾分か怒りを収めて表情を押さえていた幸村の顔が一変したのを見てとって、やべ、とへらりと笑い慶次は慌てて掴まれていた腕を力任せに振り払い、大きく後方へ跳ぶと其の儘くるりと身を翻し、鋭く指を鳴らした。
「触らぬ神に祟り無し、だよな!」
「待てッ、貴様、巫山戯るのも大概にしろ!!」
「嫌だよ、今は喧嘩したい気分じゃねえよ!」
背から熱気を感じる程に怒りに任せた赤獅子に、怖い怖いと笑い乍ら叫んで慶次は指笛に駆けて来た愛馬に、ひらりと飛び乗った。
「待てッ、大人しく縄に付け!!」
「やだって、別に悪い事なんかしてねえもん!」
「こっ……この惨状を見て未だ申すかッ!!」
ぶん、と振られた腕の先には壊れた店先を片付け、転がる怪我人の世話をする町民が忙しく立ち働いていて、慶次は肩を竦めて片手で拝み、ごめんっ、と片目を瞑って見せた。
「今度詫びに旨いもん持ってくるから、許せって! またな、幸村!」
普段はただ良い様に走らせるだけの松風の腹を蹴り、武田の馬も敵わぬ愛馬で往路を駆け抜けるも、何処までも響く怒鳴り声は姿が見えなくなっても暫く聞こえていて、次に会う時は何を言ってからかおう、と小さく笑い、慶次は西へと進路を定めた。
20070610
文
虫
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