天  地  の  狭  間

 
 
 
 
 
 

 轟く雷鳴をも劈いて、遠く離れた此処まで時折気合いの声が響く。
 赤い装束がちらちらと炎の合間に動いているのを見ながら、政宗は組んだ腕をそのままに唇の端を吊り上げ、笑んだ。直に、彼れは此処へとやってくるだろう。
「おい、小十郎。邪魔すんじゃねえぜ」
「は、承知しております」
 竜の鎌首の上へと立ったまま、右へと控えた小十郎が豆粒のような赤へと向き直った気配がした。視力のない右では、視界で捕らえることは出来ない。
「……相変わらず、場も人も選ばねえ野郎だ」
 群がった兵がどっと振り払われた様に呟いた小十郎の独白に、政宗は小さく鼻を鳴らした。
「Han……お前も彼れと殺り合いてえってのか、小十郎。生憎だが、彼れに手前を殺らせる気も、手前に彼れを殺らせる気もねえぜ」
「判っております。が、一太刀目は是非此の小十郎に」
 ただの一太刀で構わない、と政宗を見る目の奥に、意志のない、透明な稲妻が光る。なんとも好戦的な色だ、と政宗は思う。時に此の右目は、伊達の誰よりも強い剣を欲しがる。
 政宗は態とらしく溜息を吐き、ちらと眉を上げて嗤った。
「まったく、仕方のねえ右目だな」
「政宗様、では」
「だが、彼れは譲れねえ。俺のおこぼれなら……と言いたいところだが、骨まで残さず食うつもりなんでな。手前の出番はねえぜ、小十郎」
「………承知」
 軽く頷き、引くと同時に半歩下がった副将に、政宗は満足して再び赤い男へと目を向けた。ごうごうと雲を鳴らしていた雷は少しばかり収まり、代わりにぽつぽつと大粒の雨を落とし始めた。
 戦の始めは晴れていた空は今や真っ黒に掻き曇り、雨に混じり一際重い雷が鈍く地を揺らす。
「降って参りましたな。今日は暑うございました」
「なに、直ぐに止む。ただの夕立………」
 天を見上げ、目を細めたその顔に雨を受けながら言う小十郎に何気なく返し、政宗はふっと口を噤んだ。見下げる先の赤い男は、随分と近付いてはいるが、馬に乗っているわけでもない。未だしばらくは掛かるだろう。柄に手を掛けるほどでもない。
 
 違和感。
 
「跳べッ、小十郎!」
 咄嗟に両手をそれぞれ三本の柄へと掛けて鞘から抜き様叫び、政宗はふいに背後へ盛り上がった炎の気配を六爪で受けた。
 ぎいん、と耳障りなような、心地良いような剣戟が響き、何処から上ったものか頭上から躍り掛かった二本の槍が、六爪に噛まれて止まる。
 男の肩から、しゅわ、と低く音を立てて湯気が上った。
「───影武者か」
 呟きに、赤い男は雨の流れ込む瞠った目を一度も瞬かせぬまま、驚喜に満ちた笑みを浮かべた。
「気付いていたか。流石は独眼竜なり!」
「たった今だ、真田幸村。ありゃ、あんたのところの忍びだろう。随分とあんたの真似が巧くなったもんだ」
 猿真似ってLevelじゃあねえぜ、とちらと唇を吊り上げ嗤い、政宗は渾身を込めて槍を弾いた。飛び退った幸村は濡れた石に足を取られながらも、構えを崩さず対峙する。
「………が、その熱ばかりは真似出来ねえらしいな。雨がなけりゃあ、まさか対峙してまで気付かねえってことはないにしろ、相当近くまで侵入を許したかもしれねえ」
 絶えず雨を蒸発させる身を差して言うと、水に重く垂れた鉢巻きを締めているというのに額はまるで濡らさぬ幸村は、ますますに笑んだ。綺羅綺羅と黒い目が、無邪気に輝く。
「お褒め頂き、光栄にござる。彼れは某の自慢の忍び。日々鍛錬を怠らず精進を重ねております故、次にお会いする時には、更に恐ろしい相手となっておりましょうぞ」
「次があれば……の話、だな。おい、小十郎」
 言葉の後半で右目を呼び、政宗は刀へ手を掛けたまま竜の鼻先で成り行きを見ていた小十郎へちらとも視線を向けぬまま、ただ背中でその目が此方を見たのを感じた。
「行って、彼の鼠を追い払って来な。食っちまっても構わねえぜ」
「はっ」
 ひら、と身を返した右目はそのまま竜の顎から地上へと跳んだ。幸村はその背を目で追うこともしない。
「随分と自信満々だな。あんたの忍びが、竜の右目に敵うと思ってるわけじゃあ、ねえだろうな?」
「無論、正面から闘って、佐助が勝てるとは思うておらぬ。しかし片倉殿の強襲は、某が此処へと辿り着いたという証。ならば佐助の役目は、此れで終わりだ。粘らず退くよう、申し付けてござる」
「Ha! 忍び思いの忍び使いか」
「無理はさせぬ。佐助は、武田の戦になくてはならぬ者だ」
 政宗はにやりと瞳を細めた。
「あんたにとってはどうなんだ?」
「何?」
 怪訝に眉を寄せた顔にやれやれ自覚なしか、と皮肉に唇を歪め、政宗は軽く踏み込み六爪を振るった。跳び退った幸村が地上へと飛び降りるのを追い、稲妻を纏う一撃で、素早く更に跳んだ幸村の居た場所を、一瞬遅れて深く抉る。雨に濡れた土が、泥混じりに舞った。
「愉しませてくれよ、真田幸村ぁ!」
「貴殿こそ、全力で参られよ!!」
 吼える虎のその顔が歓喜に溢れているのを見ながら、政宗は湧き上がる狂喜に唇を吊り上げ、嗤った。
 
 
 
 
「竜の右目とお見受け致すッ!!」
 大声音が響き渡る。
 驟雨に濡れた戦装束は既に深い赤へと色を染め変え、ばたばたと顔を、剥き出しの腹を伝い落ちる水にも瞬き一つない睫もまた、幾度も幾度も水滴を滴らせている。重く垂れた端から水を滴らせる鉢巻きを額に締めた程度では、此の雨を止めることは出来ぬようだ。
「貴殿が此処におられるということは、独眼竜が先におるという証!! 向かわせて頂くッ!」
「その必要は、ねえぜ」
 しゅあ、と気を迸らせる黒龍を抜き、小十郎はその雨に濡れた躯以外、寸分も甲斐の若虎と姿の変わらぬ男を見詰めた。
「手前は此処で此の俺が始末する。………いい加減、化けの皮を脱ぎな、武田の忍び」
「何を申される!? 某は……」
「手前の主なら、今頃疾っくに政宗様の足元に転がってんだろうよ」
 ぱちり、と、男が瞬きをした。
 途端表情が変わる。同じ顔であるというのに、きょとんと険の抜けたような、それでいてどこか抜け目のない、無害なふりをした笑みが、にこりと唇へと浮かぶ。
「思ってたより早いな。さっすが、真田の旦那だ」
 軽い口調で、本来の声へと戻った忍びは、しかし姿は主を真似たまま、二本の槍をしゅ、と回して脇へと挟んだ。
「まさかあんたが出て来てくれるとは思わなかったけど、右目を足止め出来るならそれに越したことはないね。旦那の一騎打ち、邪魔されちゃあ堪らねえ」
「は、俺は政宗様の邪魔はしねえよ」
「それはどうかな」
 真田の旦那は強いよ、ときらと瞳を緑に光らせ、次にはまた黒々とした目へと戻った男はにんまりと笑った。
「まっ、あんたは此処で俺様と遊んでって頂戴」
「手前に付き合う時間が惜しい。さっさと始末して、戻らねえとな。まさか忍びの分際で、俺に勝つつもりじゃあ、ねえだろうな」
「まさか。竜の右目と一騎打ちなんて、そんな怖いことするわけないっしょ」
 言うが早いか、周囲に落ちる暗い雲の影から、ぬう、と幾つもの影が現れる。忍び装束を雨に濡らした集団は、無表情な目で一様に小十郎を見た。
 化けた忍びが無邪気に笑った。
「さてさて、あんたの主人に倣って言うなら、ショータイムの始まりだ、ってね」
「………忍び風情が」
 毒突き、ぐ、と重心を下げたのを合図としたように、姿勢の変わらぬ赤い男の先遣りの黒い忍び達が、音もなく小十郎へと迫った。
 
 
 
 
「佐助」
 ばさ、と陣幕を捲りやって来た主に、四苦八苦しながら晒しを巻いていた佐助は顔を上げた。
「お、旦那。無事で何より。決着は?」
「付かぬ。しかし、次こそは勝つぞ」
 言いながらどかどかとやって来た幸村は、佐助の手から晒しを奪い巻き直し始めた。器用な質ではないが、戦場に出るようになって久しいため、こういった作業は手慣れたものだ。
「お前、片倉殿とやり合ったのか」
「俺様一人じゃないよ。隊の連中と一緒」
「誰も落とさなかったろうな?」
「危なかったけどねえ。彼奴等にも足止め目的なんだから斬るより避けろってのは言ってあったし、まあ、俺様が一番重傷」
 そうか、と頷き、幸村は晒しの邪魔をしている佐助の後ろ髪を無造作に払った。
「馬鹿者が」
「あ、酷いね。旦那の邪魔されちゃあ困るって思ったからこそだろ。褒めてくれても良いんじゃないの」
「一騎打ちとなれば、片倉殿は手を出さぬ」
「武人の鑑ゆえ、とか言いたいんだろうけど、判んねえよ、そんなの。あの旦那の独眼竜大事は半端ねえだろ……って、」
 ぎゅ、と固く縛られた晒しに呻き、顔を顰めて佐助は胸をさすった。裸の肩が稲妻に舐められたか、毛羽立ち黒く焦げている。
「皮を焼いたか」
「しばらく跡になるかなあ。みっともないったら」
 肩口を見ている己と同じ顔を見詰め、その頬骨のあたりが日差しに焼けたかのように赤く火照っているのを見て、幸村は額を撫でた。
「熱が隠っているな」
「俺様、火遁はあんまり得意じゃねえんだよ。悪いね、紛らわしくて。旦那の格好してたほうが、ちょっと楽なんだわ」
「多少なりとも、火の気に寄るのか」
「んん、よく判んねえけど、影も操れなくなっちまうし、そうなんじゃねえかな。すっかり旦那にはなれねえけど……」
 そうだな、と幸村は頷き、傍らの盥から水に沈んでいた手拭いを取った。ざばざばと水滴を飛び散らせながら、無造作に纏めて絞る。
「伊達殿は、彼の幸村は雨に濡れておると、遠目にそう見てとったようだぞ」
「そりゃ、随分と目が良いこって」
 肩を竦め、佐助は背を丸めて胡座の合間に両手を落とした。
 自堕落な己の姿に頓着せずに、幸村は濡れた手拭いをその首へと掛けて再び邪魔をした後ろ毛を抜いた。いつもはふわふわと柔らかな猫毛は、今は己と同く、硬く腰がある。
「そろそろ撤退するが、どうだ。退けるか」
「あ、うん。しんがりしようか」
「才蔵にさせる。それで更に無用な傷でも負われても敵わぬからな」
 佐助は唇を尖らせた。
「信用ねえなあ。無理に炎使わなきゃ、真田幸村の術使ってたって大丈夫だって」
「怪我人が何を言う。それから、おれの顔でそれをするな」
 ぎゅ、と尖らせた唇を摘むと、痛い痛いともごもごと文句を言われた。幸村はようやくに少し笑う。
「兎に角、無事で良かった。死んだかと思うたぞ」
「そりゃ、竜の右目と一対一で正面からじゃ勝算は低いかも知れねえけど、俺様そんなに弱かねえぜ」
「判っている。なればこそだ」
 ぽん、と軽く佐助の頬を叩き、幸村は腰を上げた。
「馬を使え」
「何、随分と過保護だね」
「伊達殿がな」
「また独眼竜?」
 何吹き込まれたの、と肩を傾げる佐助に、吹き込まれたとは失礼な、と幸村は眉を上げる。
「おれにとってお前は何かと、問われた」
「はあ?」
「改めて答えることはしなかったが、佐助は佐助だと思うてな」
「そりゃそうだ」
 それがなんなの、ときょとんと見る顔は幸村が自覚する己の顔よりも幼く映る。表情の違いか、知らぬだけで己もこのような顔をするのかと考えながら、幸村は踵を返した。
「さっさと治せよ、佐助。次は、武田の戦だ」
「ちょっとはお休みくれたっていいのに」
「上洛が済めば、幾らでも休ませてやる。それまでは奮えよ、佐助」
 佐助は深々と溜息を吐き、へいへい、とやる気のないいらえを返した。

 
 
 
 
 
 
 
20090726
影武者/神鳴り/水

当たり前過ぎて言うほどでもなかっただんな