「つるぎ」 お前も呑みなさい、と開け放たれた縁側の向こうの月のあえかな光に輪郭を光らせた主が、美しく微笑ってかすがを見た。 うっとりと見蕩れていたかすがは、はっと瞬きほっそりとした指の先の、杯へと目を向けた。震える手を差し出すと、ひんやりと真夏でも冷たい両手が、かすがへ杯をそっと握らせる。 傾けられる銚子が静かに酒を満たし、それに震えの波紋を広げながらかすがは有頂天になった。主が手ずから、此の忍びでしかない己に、酒を与えてくれている。 「さあ、おのみなさい」 銚子を置き、自らの大きな杯を片手に脇息に凭れた主に、かすがは感激に瞳を潤ませた。 「はい! 謙信様………」 上擦った声でいらえを返し、にこりと微笑み大杯に唇を付けた主を見詰め、それからかすがは赤い杯へと唇を寄せた。ふ、と、鼻腔を擽る酒の強い香りに、瞬く。 毒の臭いだ。 かすがは目を上げ、主を見た。視線に気付いたか、主はかすがを見詰めて微笑を浮かべたまま、首を傾げる。 「どうしました、つるぎ」 「いえ………」 さあ、お呑みなさい、ともう一度勧められ、かすがは杯へと目を落とす。澄んだ酒に、ふるりと波紋が浮いて消えた。 易しい毒ではない。万が一主が含んでいたのなら、疾うに倒れているだろう。主は同じ銚子からかすがに此れを注いだのだから、酒に毒が混ぜられていた、ということではないはずだ。 とすれば、かすがの為に用意した、此の杯に毒が塗ってあったと言うことだ。杯は濡れてはいなかったが、予め塗ってあったのなら乾いていたのだろう。それが、酒に溶けたのだ。 主へと毒を盛るのならば、あの大杯でなければならぬ。主は此のような小さな杯では酒を呑まない。そして普段、かすがは酒を呑む主の側へ控えていることはあれど、共に酒を頂く等という無礼を犯すことはしない。 つまりこの小さな杯は、主がかかすがと酒を呑もうと、今宵特別に持ち込んだものだ。 主が、死ねと言っている。 「つるぎ、」 ならば喜んで此の杯を呷ることが喜びと頭では思うのに、震える手は持ち上がらない。ぽたり、と鼻筋を伝って落ちた涙が、酒に再び波紋を広げた。 主の冷たい手が、頬を包んだ。 「つるぎ、どうしたのです」 「嗚呼………」 謙信様、と呟き、かすがは薄らと眉根を寄せて覗き込む、美しい貌を見詰めた。主にこんな顔をさせてしまうなど、あってはならないことだ。己の事で主に心労を掛けてしまうなど、忍びとは言えない。 けれど美しい貌を見詰める躯は動かず、ただ魅入られてしまう。主の手が、そっと杯に掛かった。 ふいに、此の毒の酒が主の肌に触れでもしたら、とかすがは我に返った。 「いけません!」 咄嗟に杯を後方へと放る。ぱっと散った酒は主の袖を僅かと床を塗らし、からんからん、と思ったよりも大きな音を立てて杯が転がった。主が目を丸くしている。 「嗚呼……! 申し訳ありません、謙信様! お召し物が、」 かすがは慌てて布巾を掴み、毒の酒を拭った。ほんの数滴染みただけの酒は、厚い法衣に遮られ肌には届かぬだろう。 しかし不安が拭えず幾度も拭いていると、ひや、と主の手が肘へと触れた。 「もうよい、つるぎ」 「あ、あ………謙信様……申し訳……」 主は優しく微笑んだ。 「なかずともよいのです」 そっとと抱き寄せてくれた細い躯は、水のように冷たい。ゆっくりと頭を撫でられて、かすがは再び涙を零した。止まらぬ涙にしゃくり上げるかすがを、主はいつまでも撫でてくれている。 「なにもしんぱいすることはありませんよ、つるぎ……」 さあ、おやすみなさい、と囁く言葉に誘われて、かすがは未だ涙を零す目を、ゆっくりと閉じた。 何かを覚悟するようにじっと目を閉じていたくのいちが、漸くに眠りに落ちたのを見てとって、謙信は膝の上に乗った小さな頭を撫でた。赤ん坊のように躯を縮めて眠るくのいちは生きていないのでは無いかと思うほど儚い息をして、ぴくりとも動かずに眠っている。ただその頬に、僅かに涙の跡があった。 謙信はそっとかすがを膝から下ろし、羽織をその痩せた躯へと掛けた。ふわりと掛かる薄絹では如何にも寒そうで、後で褥に運んでやらねばと思う。 謙信は立ち上がり、縁側へと歩んだ。さら、さらと法衣が衣擦れを立てる。 きし、と鳴く濡れ縁へと立ち、月を見上げ謙信は先程のくのいちの様子を考えた。 迂闊であったか、と思う。普段使わぬ杯を、人の手を介して受け取った、それがいけなかった。くのいちのあの様子では、恐らくそこに毒が塗ってあったのだ。 上杉は一枚岩ではない。あれ程結束の固いようにも思われる武田ですら、内部には幾つもの火種を抱えているのだ。氷の気性である上杉に、それが無いわけはない。内部にも、謙信の命を狙う者は居る。 ただ、忍びは謙信のものだった。故に謙信は身の回りの世話を忍びにさせることが多い。今宵の酒の準備も、忍びがしたものだ。 家臣も忍びも皆謙信に付き従うが、家臣は上杉家へと仕える者も多く混じる。しかし忍びは皆、己へと仕える毘沙門天の子等だ。忍びの技とはかけ離れた、火や氷の力をふるう者もいる。その中で、謙信のつるぎだけがまた、異色だった。 謙信はかすがへ忍隊へと入れとは命じなかったし、命がないからか、それとも互いにその気がないのか、隊とかすがも歩み寄ることはしていないようだった。 一見したところ、特に問題もなく幾つかある部隊のそれぞれの忍隊とかすがは上手くやっているようにも思えたが、新参者のくのいちに、思う所のある者もいたのだろう。それに気付けなかったのは、己の落ち度だ。一歩間違えば主が命を落とすことにもなる手段だ。そんな手段で、くのいちの命を狙うとは思わなかった。そこが、策であったのだろう。謙信は、大杯でしか酒を呑まない。 面と向かって戦えば、上杉にかすがに敵う忍びはいない。ならば策を練ったほうがいい。 事実、かすがは杯を呷ろうとしたのだ。恐らくは、謙信からの三行半だと思い込んで。 可哀想な事を、と憂う瞳を微かに伏せて、それから謙信はつと月を見上げた。 「でてきなさい」 居るのでしょう、と虚空へ囁く。さらさらと、夜風が法衣を撫でた。 そのまま暫し月を眺めていると、やがてはあ、と小さく溜息が降って来た。同時に、ざあっと闇を巻き細い影が庭へと立つ。 「どうしてばれたのかねえ」 「なに、かんたんなこと。つるぎがはいをあおろうとしたならとめようと、めをひからせていたでしょう。おまえのそのけはいで、わたくしもあれがどくだと、きづくことができました」 礼を言います、と微笑めば、月の光に橙の髪を薄らと光らせた影は、肩を竦めた。 「俺様も未熟だねえ」 「しんげんのふみは」 「こちらですよ」 どうぞ、と差し出された結び文を受け取って、謙信はそのまま袂へと落とした。飄々といつもと変わらぬ顔でいる、武田の忍びを見詰める。 「おねがいがあります」 「へえ? 軍神さんが、俺様に?」 ぱちぱちと目を瞬かせた忍びに、謙信は頷いた。床に転がったままの小さな杯を指差す。 「あれをよういしたものを、さがしだしなさい」 「ええ、ちょっと。そんなの俺様じゃなくって、あんたの忍びに頼みなよ。大勢いるだろう」 「わたくしにつかえるしのびはおおぜいいます。しかし、こころあたりがない」 忍びはちらと片目を眇めた。普段見ることがない、しかしかすがと居る謙信を見詰めるその目に時折掠める、剣呑な色だ。 闇の色だ。 「………つまりあんたは、自分の忍びをみんな、疑っているわけだ」 「ぎゃくです」 「おんなじこった」 哀しいねえ、と頭を振り、忍びは昏々と眠っているくのいちを示した。 「そんなにそいつが大事なの」 謙信は微笑んだ。 その笑みに何を思ったか、忍びはやれやれとまた溜息を吐いて、きゅ、と僅かに爪先へと力を込めた。途端消えた影を埋めるように、ひらりひらりと幾枚かの黒い羽根の幻影が舞う。 謙信はその羽根がつうと夜に融けるまでを見詰めて、踵を返した。主が眠れと言えば深くも眠る、従順なくのいちの元へと屈みその細い躯を抱き寄せ、両腕に抱き上げる。 部屋を出て一呼吸を置き現れた気配が膳を片付ける音を背後に聞きながら、謙信は腕の中のくのいちの美しい顔を見詰めた。 夢の中でも苛まれるのか、くのいちの閉じた瞼から、つうと涙が一粒落ちた。 |
リクエスト内容:佐すが+けんしんさまor佐すがでけんしんさまとさすけ
依頼者様:ハルさま
20090123
蝙蝠と月下美人月下美人は蝙蝠媒花
謙かす見てるともやっとするのに仲取り持っちゃうさすけ
って謙かすとさすけになってしまいました…ていう…