組   み   式   螺   旋   階   

 
 
 
 
 
 

「また歴史の教科書?」
 この鉄筋アパートの屋上はいつでも入り放題で、しかもひとが居ないから会っていても目立たないと教えたのは自分だ。しかし覗きに来る度にいる少年はやはりいつでもその去年の教科書に見入っていて、中学生にしては高い背を丸めてひとり寒々しくそうしている姿に、これでは友達と出歩くこともないのだろうな、と余計なことをした気分になる。
 少年は上目遣いに真っ黒な目を上げた。
「佐助」
「はいはい、佐助さんですよ。寒くないの?」
「寒い」
「馬鹿じゃね?」
 言いながらぽいと下の自販機で買った温かいコーヒーを放れば、過たず受け取った幸村は教科書が膝から滑り落ちるのも構わずに両手で握って暖を取る。
「そろそろお外で待ち合わせはしんどいやねえ」
「……お館様が」
「はあ、またその話」
「何故徳川が天下を取っているんだ。あの時、家康はお館様が倒したはず」
「でもちょう長生きしたんでしょ、徳川家康って」
「死んだとき、まだ子供だった。おれとお前で本田忠勝を」
「そうだっけ」
 貯水タンクに凭れたままくん、と鼻を鳴らして首を傾げると、足下に胡座を掻いていた幸村が嫌そうに見上げた。
「また忘れたのか」
「またってなによ」
「この間までは憶えていただろ。お前、物忘れが激し過ぎる」
「あはは、よく言われるー」
「あははじゃない! 佐助は、一度憶えたことは忘れない男だったんだ。優秀な忍で」
「だって俺、別に猿飛佐助じゃないもん」
 幸村は盛大に顔を顰め、再び俯いてプルトップに爪の短い指を掛けた。5年竹刀を握り、7年空手をしたという手はずんぐりと肉厚のようにも思えたが、開けば驚くほど長い指をしている。まだまだ成長途中の掌が、アンバランスに見せるだけだ。
 旦那はこんなにでっかい人じゃなかったけどな、と佐助は短髪の天辺のぐりっとしたつむじを見下ろしながら思う。小柄な男でもなかったが、遠い記憶の中にいる真田幸村よりも、真田幸村だったと名乗るこの少年のほうが、遙かに大柄になりそうな予感がする。
 かくいう自分も猿飛佐助であった頃はずっと背も高くて筋肉質だったようにも思うが、それは単に回りが小さかっただけのことかもしれない。実際、過去世の記憶(というものが、妄想ではなく真実あるものとすれば)に照らし合わせた幸村は、佐助の姿を髪や眼の色こそ違えどあの頃のままだ、と評した。
 しかし鏡に映る顔は記憶の中の佐助とは違うものだったから、そうであればと願う少年の思い込みの可能性は否めない。
 幸村だったと言う少年の顔も佐助の憶えている幸村とは、まるで違う。一重の黒眼がちの眼は眦が尖り、真っ直ぐな鼻梁は日本人離れしてやや鉤鼻だ。どちらかというと犬のようだった幸村とは違い、犬は犬でも狼の相貌をしている。美形と呼ぶにはやぶさかないが、それにしても種類がまるで違う。
 そういや伊達政宗とかに近いかなあ、でもあっちはなんか爬虫類っぽかったっけ、と首を傾げていると、膝をつつかれた。
「なに?」
「座ったらどうだ」
「ケツが冷たくなるんだもん」
 そうか、と唇を曲げ、少し考えていた幸村は、落ちていた教科書を鞄に突っ込むと立ち上がった。出会った頃は佐助と並んでいた肩が、今はもう高い。尖った身体はまた少しばかり厚みを付けたようだ。
「幸村くんさあ」
「その、妙な呼び方は止せ」
「だって名前教えてくんねえんだもん」
「真田源二郎幸村、だ」
「あそ。幸村くんさあ、」
 幸村は眉間の皺を深くしたが、それ以上は言わなかった。佐助はあっと言う間に茜を越えて、藍色に侵蝕され始めた空を見る。
「毎日ここにいるの?」
「そうだな、稽古がなければ、大体は」
「稽古ない日ってあるんだ」
「今日は夜だ。8時から」
「え、塾とか行ってねえの?」
 幸村は必要ない、と無表情のままで言って、コーヒーを飲んだ。
「おれのところはエスカレーター式なんだ」
「うわ、おぼっちゃんだな」
「馬鹿。大変だったんだ、中学受験」
「受験したのかあ。頭いいんだ」
「良くないから苦労したんだろうが」
 ようやく苦笑のように表情を弛めて佐助を見、それから幸村はふと怪訝に瞬いた。
「そう言えば、佐助は三年じゃなかったか? どうするんだ。就職か?」
「いや、大学行くよ。そうそれでね、しばらくここ来れないかもだから、ちょっと携帯貸して」
「は?」
 いいからいいから、と勝手にポケットからはみ出ていたストラップを絡め取り携帯を奪取して、佐助はかちと開いた。
「あれ、ロック掛けてるし。生意気」
「なんだそれは! 掛けておかねば親が勝手に、て、お前勝手に弄るな!」
「外れた」
「は? なんでだ!」
「楽勝楽勝。えーと、新規登録っと」
 かちかちと勝手に己の番号とメールアドレスを登録して、リストを開いたまま佐助は幸村へと携帯を差し出した。
「はい、『さすけ』って俺ね」
「あ……ああ」
 ではおれのも、ともたついた手付きで弄る幸村に笑ってポケットから携帯を取りだし、佐助は辿々しく読まれる数字とアルファベットを登録した。
「……佐助は、何の大学に行くんだ?」
「美大」
 途端吹き出した幸村に、なによ、と佐助は唇を尖らせる。幸村はいやだって、と一頻り笑い、どんと佐助の胸を小突いた。
「お前、物凄く絵が下手だったんだぞ!」
「失礼だな! 個性的って言ってよ!」
「字も汚くて」
「それは関係ねえ! てか、絵じゃなくって彫刻なの!」
 んもう、とむくれてそっぽを向けば、悪い悪い、と肩を叩いて幸村は貯水タンクに寄り掛かった。
「……そうか、そう言えば夏からあまりここにこなくなったしな」
「あ、ごめんね。さすがに受験生だからさ。あんたあんまり、そういうの聞きたそうじゃなかったから、何か言いそびれちゃって」
「ん?」
「昔の話しかしたくなさそうじゃないの」
 ひた、と注がれる視線に目を向ければ、肩の触れ合うような位置で、少しばかり屈んだ幸村と真っ直ぐに目が合った。
「そんなふうに見えるか」
「うん。俺の名前は聞きたくないのに、他に同じようなのがいないか探そうとかさ、この頃言わなくなったけど、一時期ずっと言ってたじゃん」
「お前は嫌がったな」
「そりゃ嫌だよ。頭おかしいひとじゃねえの、そんなの」
 真っ黒な目が僅かに陰る。
「……子供の頃に親にもそう言われて、泣かれた」
「まあ……俺が親でも、泣くかな。お館様がおらぬ、とか、自分そっちのけで自分の子がわんわん泣いたら」
 そうだな、と幸村は素直に頷いた。
「だから、それから誰にも言っていなかった。お前を見て、佐助だと思うまで」
「何のキャッチかと思いましたよ。子供使ってあくどいねえって」
「おれは一目で解ったのに、お前はまったく解らなかったな」
「そりゃ、俺の『旦那』とは顔も声もなにもかも違うし、大体俺、自分のこれって妄想だと思ってたからさあ」
 そりゃ吃驚したさ、と笑って、佐助はふと笑みを納めた。
「……あんた、俺と会ってから友達と遊んでる?」
「いや、もともとおれはあまり大勢でつるむのが得意じゃない」
「友達は、」
「いる。余計な心配はしなくていい。お前のせいで何かが変わったとか、不審がられているとか、そういうことはない」
 奇行の目立つ少年に抱いた不安が知れたのか、さらりと先回りをした幸村は珍しく年相応の顔で笑った。
「ここにいるときには好きにしているからな、お前には妙に見えるだろうが、気を許しているからだとでも思っていろ」
「ふうん」
「お前も好きにして構わないぞ」
「別に気張ってなんかないけどね」
 肩を竦めると、そうか、と呟いて幸村は少し黙った。
「佐助」
 なに、と顔を向ければ、黒い目がじっと見詰めた。見詰め返していれば元より距離の近かったそれがより近付いて、唇が触れる。
「……メールしてもいいか」
「別に、いいけど」
「電話は」
「そうだねえ。10時過ぎとかなら平気かな」
 うん、と頷き、額を突き合わせた距離で、小さく視線が彷徨った。
「その、……また会えるか」
 ぶ、と吹き出せば、彷徨っていた視線がくっと戻り、幸村はむくれた。
「何故笑う!」
「いや、だって、受験で忙しいからちょっと暇ないよって言うだけなのに、凄い今生の別れみたいな」
「悪いか! その今生の別れを一度味わってるんだぞ! 今だっていつ何があるかなんて」
「そらそうだ、解ってる、ごめんごめん。いやだけど、別にあんたと会いたくないから距離取らしてとか言うんじゃないんだからさ、そんな深刻になられても困るって」
 はーあ、と息を吐いて笑いの発作を納め、佐助はまだむくれている幸村に苦笑した。
「そんなに怒んないでよ」
「怒ってない。……その、お前のほうこそ」
「ん?」
「キスとか、その」
「あー、」
 別に減るもんでもないしなあ、と頭を掻いて、それから佐助はちらと横目で幸村を窺った。
「つか、あんたこそ良かったの?」
「え?」
「気持ち悪くない? 男同士よ」
「何故だ。だって、……その」
「それは幸村さまと佐助くんの話じゃん。あんたと俺の話じゃねえよ」
 しん、と黙ってしまった幸村に、佐助はううん、と呟いてわしわしと髪を混ぜた。
 あの明るいオレンジの髪は無論持っては生まれなかったが、纏まりにくく量の多い細い髪質は記憶の中の己と似ている。だが恐らく続いた血筋の末裔と言うこともないし、幸村とて真田家に列なる者ではないだろう。どこまで遡ろうが、無関係の可能性のほうが高いと佐助は思う。
 ただ、その魂だけが酷似していると、それだけの。
「記憶に踊らされてるだけならさあ、止めておきなよ」
「踊らされるとは、なんだ! 生まれた時から憶えているんだ! もう14年も付き合っている記憶だぞ! そんなの、今のおれの記憶と同じだけの価値だろう!」
 古いからだとか、現世のものではないからだとか、妄想かもしれないだとか、そういったことは幸村には足枷にならない。佐助はふう、と息を吐いた。
「まあ、いいけど」
「なんだ、嫌ならいいんだぞ。無理強いしようと思っているわけではないし、……その、おかしなことだと言うのは解ってる」
「嫌とか言ってないし。つか、やだったらキスとか避けてるし」
 え、と呟いて固まってしまった幸村の顔を覗けば、みるみる首まで真っ赤になった。なに今更、と呆れながら、佐助は足下に置いた鞄を拾う。
「でも俺はさ、別に幸村さまは好きじゃねえよ、おっかねえし。猿飛佐助は好きだったのかもしんないけど、なんか俺にはよく解んないんだよね、ご主人様と忍者とか。なんか、ペット? みたいな」
「はあ!? 酷いこと言うな!」
「だってほんとよく解んないって。絶対服従だしさあ。でも俺、あんたに絶対服従しようとか全然、これっぽっちも思ってねえし」
「されても困る」
「だろ? だからね、俺が好きなのは今ここにいる中学二年生で剣道と空手を習ってて将来歴史学者になりたい幸村くんなんです」
 解った? と首を傾げれば、まったく解っていない顔で幸村は解った、と頷いた。佐助はしょうがねえな、と薄く笑う。
「まっ、あんたが昔々の戦国に拘る以上猶予は腐るほどあるし、頑張って惚れさせてみようかな」
「頑張らなくてもとっくに好きになってる」
「何百年も前から? 馬鹿じゃね?」
「馬鹿って言うな」
「いいけど。がんばるから」
 へへへ、と笑えば幸村は少し黙り、それからおずおずと口を開いた。
「その、佐助はおれの何が好きなんだ。それこそお前が言うみたいに、名前も知らないのに」
「だってあんたがあの日声掛けて来なかったら、俺今頃死んでたし」
 幸村の顔が険しく引き締まる。そのぽつぽつと面皰の浮き始めた若い顔に笑んで、佐助は鞄を肩に掛けて階段へと促した。辺りはもうほとんど夜だ。
「俺はさ、あんたが後生大事にしてるその記憶のおかげで割と人生狂わされたほうなのよね」
「どういうことだ」
「だから、猿飛佐助は優秀な忍者だったから、時代も時代だし全然平気だったのかもしんないけど、1人殺せば犯罪者で100人殺せば英雄とか、そんな問題でもねえだろ。何百人だか何千人だかしらねえけど、滅茶苦茶殺し回ってた男じゃないの。死体の顔とか、全部なんか勿論憶えてなかったけど、思い出せるのは幾つもあったの。血塗れのおっさんがさ、わらわらと毎晩夢に出て来て子供の頃から不眠症でさ。夜通し電気付けて震えて起きてる子だったわけ」
「…………」
「その上俺は生まれたときからひとの殺し方を知ってたの。首の絞め方ひとつにしてもどうすれば一瞬で落とせるかとか、どうすれば簡単に殺せるかとかね。妄想だろうって思って裏付け取ってみたこともあったけど、俺が憶えている急所っていうのは、本当に殺せるくらいの急所だったわけよ。だから俺は絶対我を忘れちゃだめだと思ってたし、万が一我を忘れて誰かに掴み掛かっても殺せないように、身体鍛えたこともないよ。これでも結構足は速いからさ、陸上部の顧問とかに何度も誘われたりもしたんだけどずっと断ってたし、飯もあんま食えなかったから痩せてたし、寝不足で貧血だったのを良いことに体育も大体さぼってたし、おかげで背は伸びなかったけど」
 それでも家の鍵を手にしたとき、鉛筆を削ったとき、傘を持ったとき、ネクタイを締めたときなど日常に凶器が溢れていることに気付いて、疲弊し続けた心が立ち直れないほどに折れたのが、ちょうどその頃だった。
「まっ、今思えば思春期だったのかなあとも思うけど、どうせ特に世間に役に立つようなことはしてないし、これからもしないだろうし、平凡にぼんやり生きてくんならこれ以上きつい生き方してなくってもいいんじゃないのって思ってさ、どこで死のうかなってふらふらしてたとこにあんたに腕掴まれたの」
 かっこよかったなあ、と佐助は必死の形相を思い返して笑う。
「見付けたぞ佐助、おれを待っていたんだろう、って言ったの。憶えてる?」
「あ、ああ」
 幸村は無様だったと呟いて赤い顔で俯いた。
「まっ、待ってたのはあんたかなって感じだったし俺は誰も待ってはなかったし、ましてや俺にとっては頭の中の真田幸村は人殺し以外の何者でもないんだ、怖いだけだけど、でも泣きべそ掻いて俺を掴まえたあんたは、すっごくかっこよかった。きゅんとしちゃった」
「き、きゅんて、お前」
 馬鹿だろう、と赤い顔のまま思わずといった様子で笑った幸村に、佐助はひひ、と歯を剥いて笑う。
「あんたに会ってからだよ」
「ん?」
「俺がどんどんあの頃のこと忘れてきたのって。時期的なものかもしれないけど、でもお陰で随分楽になった」
「…………」
「それが理由」
「……恩人だから、ということか」
「あんたの佐助だから、よりは随分ましだと思うけど」
 もう一度黙り込み、幸村は階段の半ばで足を止めた。一段足を落として、佐助は振り向く。
「どうした?」
「……そういう、話し方とか」
「え?」
「笑い方とか、……顔は違うけど、表情が、お前は佐助と同じだ」
 ひとつ瞬けば、伸びてきた両手が頬を掴んだ。すっぽりと顔を包んでしまう掌に、そのうち野球のグローブみたいになるのかな、と佐助は思う。
 そのまま落とされたキスは先程より長くて、ぴくと震えた睫が瞼をくすぐる。
「おれは記憶をなかったことにはできない」
「ふうん」
「だが、佐助とお前は同じ者だと思っている」
「それで?」
「だから、おれは佐助が好きなだけじゃなくて、佐助だったお前が好きだ」
 ふうん、ともう一度呟いて、佐助はまあ今はそれでいいか、とわしわしと短髪の頭を撫でた。
「なんだ」
「可愛がってみただけ。嫌だった?」
「別に」
「名前、訊く?」
 幸村は少し首を傾げ、それから頭を振った。
「未だいい」
「あっそ」
 肩を竦め、佐助はくるりと踵を返して後を付いてくる足音を聞きながら、階段を降りた。

 
 
 
 
 
 
 
20071022
初対面/赤面/悩む

自分で組んでぐるぐる昇る
(もしくは降りる)