イ  ロ  フ  ォ  ビ  ア

 
 
 
 
 
 

 衣服をどろどろに汚し鼻血で顔も汚した男があまりに見窄らしくて思わず拾っていた。
 何をして殴られたものか、と身長の割に妙に軽い骨張った身体を背負って帰りながら考えていると、気が付いた男は破落戸の女に手を出してぼこぼこにされた、と勝手にへらへらと笑いながら語ったので、幸村はそれ以上は聞かずにおいた。
 何しろこのオレンジ色の頭には覚えがあった。ならばもうそれ以上は聞かずとも、どうせどこぞの女になどうつつを抜かすようなことはもうさせぬ。
 憶えているか、とだけ尋ねるとオレンジ頭の男はしばし黙り、それから背負う肩口へと額を擦り付けてうん、と背中を震わせたので、幸村はそうか、とだけ答えた。
 
 
 
 
 
「あ、サイレン」
 ぱっと顔を上げた佐助は少しばかり挙動不審に座ったまま身を乗り出し、窓を窺う素振りを見せた。
「最近多いねえ。放火続いてるんだっけ?」
「そのようだな」
「まさか旦那じゃねえよな?」
 幸村はじろりと不敬な元忍びを横目に見た。
「お前、今日は朝からずっと共にいたろう。おれにいつ火を点けに行く隙があったというのだ」
「そうだけどさ」
 言ってみただけ怒んないでよ、とへへ、とどこか気まずそうに笑った佐助の目の奥に、僅かな畏れがあることを知っている。
 幸村は溜息を吐き、ソファから立ち上がった。べったりと懐いた犬のように、佐助の目が追ってくる。
「どしたの?」
「飯を作る」
「えっ、あっ、ちょっと待って!」
 ばたばたと部屋の隅へと移動しがぽ、とヘッドホンを付けた佐助に口をへの字に曲げ、幸村は大股で近付いて両手で押さえているヘッドホンを片側だけぐいと引いた。大音量で掛けているらしい音楽が洩れる。
「扉は閉める」
「うっ、うん、解ってる。あの、ごめんね、俺が作れればいいんだけど」
「いい。というかお前料理なんかしたことあるのか」
 失礼な、と佐助は唇を尖らせた。
「それでも昔は結構上手かったんだぜ」
「どの昔だ」
「思い出す前っていう意味の昔」
 戦国じゃなくて、と続け、佐助は再び申し訳なさそうに眉を下げた。
「あの、別に旦那のせいじゃないからね」
「解っている」
「原因、解んないんだ」
「ああ」
 知っている、と低く笑みを交えて答え、幸村はかぽ、とヘッドホンを佐助の耳へと戻した。
「しばらく待っていろ」
「え? なに?」
「待っていろ、と言った」
 はっきりと口を開いて繰り返し、伝わったものかうんうんと頷いた佐助に頷き返して幸村はキッチンへと向かった。
 
 佐助は火が恐ろしいらしい。
 
 鍋に水を張りかちん、とコンロを捻り、ドアのガラス越しに部屋を窺うと佐助はこちらに背を向けヘッドホンを押さえたまま小さくまるくなっていた。怯えた獣のようだ。そう思えばつんつんとしたオレンジの髪も、逆立つ毛皮のようにも見える。
 湯を沸かす間にベーコンを切りブロッコリーを小房に分け、フライパンを取り出す。ぐらぐらと煮立った湯にパスタを放ちついでにブロッコリーを投入して、幸村はちらと腕時計を見た。ゆであがるまでには暫し時間が掛かる。部屋で佐助と話でもしていればあっという間だが、コンロに火を点けたままこのドアを開ければ当の佐助は酷く怯えるだろう。
 それは可哀想だ、などという気持ちはだいぶ前に過ぎた。怯えた佐助はその怯えが収まるまでの間、幸村にも酷く怯えた目を向ける。たとえば今恐怖のスイッチを入れてしまえば、少なくとも今夜は共には寝られまい。佐助は寝室へはやって来ず、リビングの隅で震えときどき檻の中の獣のようにうろうろと室内を歩き回って、そうして眠らず夜明けを迎えることになる。
 あれは何で死んだのだったかな、と幸村はぐらぐらと煮えている鍋を見ながら考えた。
 戦国の頃の記憶は鮮明な部分はまるでたった今体験したかのようにはっきりと思い起こせもするが、朧気な部分はいくら思い出そうとしてもそこだけ抜け落ちたかのように思い出すことが出来ない。遠い記憶、というよりも、虫食いのようにあちらこちらがぽつぽつと欠けているような感覚だ。
 そして佐助の死に際は、その欠けた部分に該当するらしい。もともと欠けてないものだから、いくら思い出そうとしたところできっと無駄なのだ。佐助が己より先に死んだか後に死んだか、そんなことも解らない。
 
 忍びなのだから──と考えると、きっと先に死んだのだろうけれど。
 
 がこ、とシンクに籠を置き、火を止めてパスタとブロッコリーの湯を切る。もうもうと立つ湯気に視界を奪われた瞬間、べこん、とシンクがひどい音を立てた。
(おれが先に死んだのだとしたら)
 それは哀れなことだろう、と他人事のように幸村は思う。
 共に駆け共に暮らし共に武田のために力を奮ったその記憶はあるものの、死に際の記憶がないせいだろう。佐助との記憶は思えば思うほど楽しく心沸き立つものばかりで、悲しく辛いものは一つもない。
 そうだひとつも、と考えながら、幸村は再びかちん、とコンロを捻り、フライパンを火に掛けた。
 
 
 
 
 
 音量をいくら上げても耳奥に蘇る空気を食い尽くしていく音に、佐助はぎゅうと強くヘッドホンを押さえた。
 酸素を食らい尽くしても空気そのものがなくなるわけではなくて、だから炎の音はよく響く。けれどひどく息苦しくて、いくら肺に空気を招き入れてもひとつも息苦しさは改善されることもなく、それどころか我が物顔で飛び込んだ火と熱が肺腑を灼いた。
 
 ああ、けれど。
 
 がくがくと震える手で、佐助は瞠った目からこぼれた涙を機械的に拭った。嗚咽が洩れないように食い締めた歯の奥で、喉がひくひくと痙攣している。
 死ぬことが、恐ろしかったわけではない。ただ、主を失うことが恐ろしかっただけだ。
 長い間主を走らせ武田を助けてきた灼熱は、志半ばに倒れた主を佐助の元から奪おうとした。
 独眼竜の六爪に敗れ、膝を突くこともせず全身で倒れ臥した主の元へと駆けた佐助を、勝者となった竜は止めはしなかった。それどころか鞘へと収めた六本の刀に、慌てたらしい右目が庇うように前に立つその後ろで、腕を組んでこちらを見ていた。
 その恐ろしく蒼醒めた消し炭色の隻眼を、睨み付けることすら佐助はしなかった。
 出来なかった、が正しい。
 もはやあのとき主の仇に何を思ったものかは思い出せない。臥した主の姿に沸き上がった衝撃と慟哭が、恨み辛みとなるより先に、更なる衝撃に見舞われたためだ。
 
 駆け寄り跪いて覗き込んだ顔が、手が、身体が、槍が、装束が、俯せの腹からふいに業と吹き上がった炎に、包まれた。
 誰か──恐らくは竜の右目が驚き叫んだ声が遠くで聞こえた。早く離れろ、とそう言ったようにも思えたが、佐助は何かを滅茶苦茶に喚きながら、炎に包まれた主を抱き起こしていた。
 その揺さぶる手も、主を呼ぶ口も舌も喉も、胸も、足も、髪も全部火に包まれて、けれど佐助の意識が途絶える前に、山の火もかくやと思われるほどの火は、主をあっという間に炭にして、そうして腕の中から奪ってしまった。
 
 赤々とした中に真っ青な色を抱く、それはまるで主の好敵手の稲妻のような。
 
 何に絶望したかも解らない。主の一番はいつだって武田の頭領で、稲妻の好敵手で、戦場で出会う数々の猛者で、佐助はその埒外にいた。
 佐助は主の手足で影で、顧みる必要のない彼の一部であったのだ。だから、幸村が、佐助に引かれ変化することは有り得ない。佐助は幸村に、ひとつの影響も与えない。
 それで良かった。それ以上は望まない、という意味でなく、それでこそ良かったはずだった。
 もし幸村が佐助を一個の人間として、対等の存在として扱うのなら、そんな当たり前はつまらないと佐助は逃げ出していただろう。
 幸村が佐助を顧みないからこそ、佐助は主を主として、生涯仕えると決めたのだ。
 
 だというのに。
 
 ごと、かちゃ、と背中のほうで気配が変わった。
 佐助は頬に残った湿り気を拭い、すっと落ち着いた気持ちと共にヘッドホンを外した。昔の名残か、今も佐助は気配に聡い。
 案の定ドアが開き、幸村が顔を覗かせる。
「佐助、運んでくれ」
 火は消えている、と続けた幸村に微笑みうんと頷き、佐助は立ち上がりまだ湯気の気配の残るキッチンへと向かった。
 
 
 
 
 
 シャワーの音がする。きっと今夜は彼を抱くことになるだろう。
 現代の感情の種類は戦国の頃とは違う。戦国よりも細分化された感情は、あの頃抱いていた気持ちを恋愛、という二文字に落とし込んで自分達を縛り上げてしまった。
 言葉の上での感情の数は増えたのに、その実体は単純化してしまったように幸村は思う。けれどこれが現代の生き方なのだとすれば、それに従うことに否やはない。
「……………」
 ふと、幸村は掌を開いた。ぼう、と大きく立ち上り直ぐに消えた炎は、火災報知器を刺激することすらしなかった。
 
 放火魔は幸村ではないのか、と。
 
 時折冗談に交えて本気の目で問う佐助は、今はまだ疑っているだけなのだろう。だがもし今もこうして炎を操ることが出来るのだと知れば、恐れて逃げ出すかもしれない。
 無論放火などするはずもないが、眠る間に、組み敷かれている間に、焼き尽くされてしまうのではないかときっとそれを恐れる。
 けれどその恐れの対象は死ぬ、ことではない気がする。
「失われること……か、」
 自らの肉体が、灰燼と化してしまう、それを。
 この己の目が黒いうちは彼を失わせるはずもなく、その心を挫くこともないと、数百年も昔から決まっていることを未だ知らぬらしい今も昔も己身の一部である影に、幸村は小さく溜息を吐いて温く火の熱の残る掌を握った。

 
 
 
 
 
 
 
20120518
初出:20120504