驕  り  の  一  水

 
 
 
 
 
 
 胡座を掻いた幸村と背中合わせに座り込んだ忍びは、先程から俯いたまま此方を見る事もせずに黙り込んでいる。時折鼻を啜る音が聞こえ、頬を拭うのか腕が上下する筋肉の動きが背中越しに伝わるが、其れだけだ。
 幸村はじっと黙して腕を組んだまま、触れたり離れたりしていた背中を僅かに傾けて、佐助の其れに寄り掛かる。ずず、と一際大きく鼻を啜り上げて、重たいよ、旦那、としゃがれた声が言った。
 其れにうむ、とだけ返して、幸村は障子を開け放った縁側から、空と山を仰いだ。吹き込む風は少しばかり肌寒いが、背中合わせでいる忍びには幸村自身が風避けとなって、其の冷たさは届かないだろう。
 
 上杉の忍びが、死んだ。
 
 其の事自体は問題では無い。寧ろ、自身の影とは言えたかがくのいち一人の死に彼の軍神が、氷の美貌を歪め激しく動揺を見せた事の方が、幸村には驚きだった。実際、佐助も女が誰に討ち取られたかを知る迄、結局決着の付かなかった戦を、其れでも七分の痛手を受け退いた軍神の、其の悲しみの声にやるせなく首を振っただけだった。
 女を、討ち取ったのは幸村だ。
 退く寸前、垣間見た軍神の目はちらりと幸村を舐めたが瞳に憎しみの色は無く、幸村は未だ、其の心に届く程の者では無い様だった。喩えくのいちを打ち倒したのが雑兵だとしても、軍神は同じ目をするだろう。
 毘沙門天の化身の心に届くには、信玄の、せめて独眼竜の覇気が要るのだと、そう思えば悔しいが、けれど未だ未だ未熟であると其の時にはただ佐助を促し、退いた。有利で押していたとは言え、武田も無傷では無い。追撃の命は下されなかった。
 上杉の忍びと佐助が同郷である事は、以前聞いた事があった。戦場で見えた際に親しげに口を利く佐助に、尋ねた事があったからだ。
 其の、昔馴染みを己の手で倒したのだから、一応は知らせるべきかと戦を終えて暫く、漸く上田に戻り身辺が落ち着くのを待ち、其れ迄ほとんど忘れていた其れを幸村は口にした。
 佐助は、少し目を瞠って、そうだったの、と気の抜けた声で言って、其れからふいに、涙を零した。困った様に首を傾げて鼻を啜り俯いた忍びは、止まらない涙に困惑しながら、其れからずっと、立ち去る事もせずにこうして大人しく、幸村の部屋へ座っている。涙を止めて何か弁解をしたいのだろうと、幸村も咎めずにただ、じっと佐助が泣き止むのを待っている。
 昔馴染みのくのいちが死んだ其の事自体は、幸村が己が倒したと告白する以前に、佐助の口には上っていた。
 上杉と武田の戦は多く、戦場で見える事も良くある。忍び同士、戦場以外でも遭遇する事もあるし、其の時両軍が敵対していれば、其のまま戦闘となる可能性も低くはない。
 だから、いつか己が彼の女を殺すのかも知れないとも、預かり知らぬ所で命を落とすのかも知れないとも思っていたと、此れもまた戦忍の運命だろうが、せめて慕う主の側で逝けた事は幸いだったと、小さく苦笑した其の顔に、やはり黙っておくべきではないとそう感じたのだった。
 
「佐助」
 
 ぐず、と少しばかり大きく、鼻を啜る音が先に答えた。
「………なに? ごめんね、もうちょっと」
「いや、構わぬ。………おれは、彼のくのいちの事を良くは知らぬが」
「うん……?」
「名は、なんと言ったか」
 僅かばかり間を置いて、けん、と喉を整える様に佐助は咳をした。
「旦那は、そんなの、気にしなくていいよ」
「何故だ。おれの倒した相手だ。名を知る事の、何が悪い」
「だって、ただの忍びだよ」
「ただの忍びと言うには、腕が立った。何か術を使っていただろう。術での消耗がなければ、もう少し苦戦したかも知れぬ」
 まだすっかりとは傷の癒えない肩を何気なく押さえると、寄り掛かる背中が居心地悪く動いた。
「………かすがだよ」
「かすが」
「うん」
「忍びに名は無いと聞くが、本当の名か?」
「んー……まあ、人呼んで、の姓はないよ。でも、里に居た頃から、そう呼ばれてはいたよ。生まれついての名かは判んねえけど、それはまあ、俺だって、おんなじだし……あんたら武士みたいなお家の名は、かすがも俺も、持ってねえし」
「では、謙信公が付けたわけではないのだな」
 はは、と掠れた笑い声を洩らして、軽く肩が竦められた。
「軍神は、かすがを名では、呼ばねえ」
「………嗚呼、」
 そうか、だから名の印象が無かったのだ、と頷いて、幸村は袖の下で腕を組み替えた。
「………どんな、女だった」
 眉を顰めた様な沈黙に、幸村はじっと待つ。やがて小さく溜息を吐いて、佐助は深く俯いた。顔を拭う気配がする。
「ほんと、勘弁してよ。あんたが気にすることじゃ、ねえよ」
「何故だ」
「何故って、だって、あいつがどんなのだったって、腕が立つ立たないには、関係ねえだろ。名前だけ、覚えておいてやってよ。それだって、草如きには勿体ないよ」
 言葉半ばに振り向くと、困った様な泣き顔がちらりと向けられた。其の顔をじっと見れば、再び俯いて佐助は掌で目元を拭う。
 大きく吸った息が、震えた。
「嗚呼、もう、なんで、こんなんなるかなあ」
「佐助」
「別に、あいつが死んで、悔しいとか、旦那が憎いとか、そんな事思ってんじゃないんだよ」
 だって当たり前のことだよ、と頼りなく続け語尾を詰まらせて、佐助はひとつ、しゃくり上げた。口元を押さえた手が震える。
「ご、御免、旦那、ちょっと」
「……佐助」
「呼ばないで」
「佐助」
 止めてってば、と顔を背ける肩を掴んで引く。顔を覗き込めば、両手が目を覆う。鉤の様に指を縮めた骨張った薄い手が、酷く震えている。戦慄く唇を舐めて、ぐっと硬く引き結ばれ喉がごくりと上下した。
 其の、頑なな仕種に、幸村は静かに落胆した。そして落胆した己に、やはり静かに驚いた。
 佐助は幸村の物だった。其れは間違い無く其の通りで、佐助本人に尋ねても、其れ以外の答えはないだろうと思えた。
 しかしかすがと言う名の昔馴染みとの間には、幸村の影は無い。其の事に今まで気付かずにいたことに、気付いてしまった。
 今初めて、佐助の裡で幸村とくのいちは、拘わった。そして其の裡を騒がしく波立たせる動揺を扱い損ねて、もうずっと、泣いている。童の様では無いものの、其れでも、いつもの佐助の様では、無い。
 恐らくそう言った、幸村の与り知らぬ領域が、佐助の中には未だある筈だ。佐助の頭の中に収まる知識や人脈も全て幸村の物ではあるが、武田とも、真田とも拘わらない、ただ佐助だけに拘わる、其れは主に過去の何某かなのだろう。
 其の、幸村とは本来無関係の過去を、今の佐助を築き上げる土台となった物すらも、気付いた以上そっとしておいてはやれぬ己の狭量と傲慢に酷く落胆して、また其れに落胆する事もなんと傲慢な事だろうと、驕る己に絶望する。
 幸村は、深く息を吐いた。其の息が熱を込め湿っている事に、ちらりと眉を寄せると溜息の気配に気付いたか、佐助が泣き濡れた顔を上げた。赤く充血した瞼を腫らした目が、見開かれる。
「ちょ、……っと、何、泣いてんの、」
「む、」
 つと頬を流れたものを手で触れ其のまま拭って、幸村は静かに佐助を見据えた。再び一筋涙が流れ落ちた感触がしたが、一つ瞬けば止まった様だったから、其のまま捨て置く。
「浅劣だな、佐助」
「何、が」
「おれは、浅ましい」
 お前が欲しいのだ、とは言わずに、幸村は肉の薄い頬に両手を添えて、涙に濡れた瞼に唇を寄せた。宥めるつもりであったのに、乾いた唇を濡らした落涙に、逆効果だったかと思いはしたが、其のまま涙を舐め取り尖った肩を抱き寄せる。
「佐助」
「……呼ぶな、って」
 忍びに名は、無い。しかし呼び名はある。
 かすがと呼ばれたくのいちは、ただつるぎと呼ばれていた。其れで、不満があったとは思わない。
 つまり此の者等にとっては誰が呼ぶか、其れだけが重要なのだろう。万が一にも無いが、もしいつか佐助が他の主に忠誠を誓う事があるとして、其の時猿飛佐助の名が呼ばれずとも、此れは不満を抱かぬ筈だ。
 特別な何かが呼ぶ其の己を現す音以外、名など、唯の記号に過ぎない。
 今、幸村の携わらない過去に漂い泣いている忍びの耳に、幸村の声は毒なのだ。けれど其の毒を注がずにはいられなくて、佐助、と再び囁ければ、居心地悪げに肩を竦めた佐助は、息を詰めてしゃくり上げ、緩く頭を振った。
 頑なな忍びがかすがと言う名の女を幸村に明け渡すには、もう暫く掛かりそうで、けれど陥落し掛けた其れに、もう一度浅ましいな、と呟いて、幸村は目を閉じ忍びの名を呼び続けた。
 やがて筒井は枯れるのだと、幸村は静謐のまま、確信をしていた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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転載について


リクエスト内容:泣く佐助でゆきさ
依頼者様:サバンナさま

20070323
筒井筒

だんなが人でなしでごめんなさい
さすがっぽくてごめんなさい
だんなまで泣いててごめんなさい…うおおお…