前田の夫妻から何か届け物があった、と言うので誰に宛ててかと訊けば、忍隊隊長へだと言う。 はてあれは前田と面識があっただろうかと幸村は首を傾げた。今は不穏な気配のある間柄ではないとは言え織田の臣下からの届け物、しかも自分の直属の者へ、となれば流石に把握しておかねばまずい。 佐助自身がどうと言うものでもない、個人的な物だ、と言うのならそれはそれで構わぬと、幸村は既に届け物を渡されたと言う忍びの部屋へと足を向けた。 「佐助」 冬場の襖から嵌め変えたばかりの、開け放たれた障子から懐手のまま板間の部屋を覗けば、小さな文机を前にしていた橙の頭がくるりと振り向いた。其の顔が珍しく、興奮に染まり明るい色の目を綺羅綺羅とさせて居る。 「旦那! 熊の手貰っちゃった!」 「は?」 「熊の脂となんと熊の胆も! すっげえなあ、前田の夫婦ってば太っ腹!」 そんだけあいつが大事ってことかあ、とうんうんと一人頷いている己が忍びに置いてけぼりを食らった気分で、幸村は態と足音を立てて部屋へ踏み込みどかりと座った。透かさず「どかどかしない」と小言が飛ぶ。 「何の話だ」 小言に答えず胡座を掻くと、それを咎めず佐助は嗚呼、うん、と頷いてがさがさと油紙に包まれた毛むくじゃらの手と、小さな壺を示した。 「此れ此れ。山の民の間ではべっつに珍しくもなく毎年手に入るらしいけど、こっちに回して貰える事なんて、そうそうないからさあ。確か厨に山の出の人が居たから、後で手は料理して貰おうね」 「そっちの壺は」 「熊の脂。火傷やなんかに良く効くよ。熊の胆は、腹の病ならまあ、万能薬かな。結構でっかいの、くれたよ」 そうか、と頷くと、疑問を挟む前に膝に広げた包みを文机の上へと丁寧に戻して、佐助は幸村へと向き直った。 「こないだね、壊れた霞網に引っ絡まっちゃって死に掛けてた鷹を助けてやったの。そしたら其れが前田の旦那の方の鷹だったみたいで、探しに来た旦那に泣いて感謝されてさ。礼をさせてくれって引き留められたんだけど、俺様も仕事残ってて急いでたし、お気持ちだけ頂いて帰って来たの。手紙も何にも付いてないけど、多分そのお礼」 追って奥方の方から礼状が来るんじゃないかなあ、と肩を揺らして笑う佐助に、ふむ、と頷いて幸村は毛むくじゃらの手の先を摘み目の高さに持ち上げ眺めた。獣の臭いがするかと思えば、さほどのものでもない。 「熊など、おれが幾らでも獲ってやるのに」 「ほらほら、だから駄目なんですよ。あんたや大将に熊狩りなんかさせらんないよ。見境無いったら」 「何?」 「山は山で、決まりがあるもんなんですよ。人里荒らす獣なら兎も角、そうでないなら、山の事を知らない者が手を出して良いもんじゃあないんだ。大体無闇に踏み入って熊なんか獲ってたら、山人共に殺されますよ」 「おれが、そうそうやられるものか!」 「山人って言うのはね、あんたの知らない術を使うよ。其れに、地の利って言葉を、良く良く知ってる連中ですからね。忍び大勢を相手に、目隠しして戦う様なもんだ。しかもあれらは、余所もんには容赦がないからね」 山は境界、無闇な事はするもんじゃないよ、とご丁寧に指を立てて忠告めいた真似までして、佐助は無造作にぶら下げられて居た熊の手をひょいと奪い、がさがさと油紙に包み直した。幸村は憮然とむくれる。 「しかし、我らは山を通って往き来するではないか」 「それはね、あんたのお父上の更にお父上の、もっともっともーっと前の殿様や、武田の大将のずっと前の代の殿様達の、功績あっての事ですよ。通って良い道、侵しても構わない領域をね、きちんと決めてあるんです。俺たち忍びの里の者ですら、職能民って連中とはね、不可侵の約束をしてるもんです。暗黙の了解ってやつだね」 まあ、戦戦の世の中だしね、山の民も、どんどん奥へと移動しているみたいだけど、と何処か憐れむ様な口調で言って、佐助は包み終えた手と結局包みを開いて見せてはくれなかった熊の胆だという包みを重ねて置いた。 「やれやれ、獣臭くなっちゃったな。餌遣りの前に、手ぇ洗ってこねえと、烏が厭がるね」 「お前も烏などではなく、鷹でも使ったらどうだ?」 「ちょっと、冗談でも止めてよ。俺様のかわいこちゃん達が、拗ねちまうだろ。俺様だって拗ねますよ」 俺の烏じゃ足りないっての、とむくれて見せた忍びの、不似合いに幼い仕種に笑って幸村は其の態と膨らました頬を抓った。 「痛いって、旦那」 「生意気を言った罰だ」 「あのねえ、知って置いた方が良い事を、教えただけでしょうが。まあ、此処んちだって、樵小屋のじっさま辺りに訊けば、色々教えてはくれるだろうけどね。戦馬鹿も結構だけど、あんたも民を預かるお家の若君なんだから、追々、下々の知恵も、授けて頂く気持ちでご教授願わなきゃ、駄目ですよ」 「お前が居れば済むではないか」 「馬鹿言うんじゃないよ。俺は何にも教えないよ。大体、上田の事なら俺より土地の者の方が詳しいっての」 ふん、と鼻を鳴らして幸村は包みの上の手をぐいと取り、其の掌に口付ける様な仕種でくんと臭いを嗅いだ。 「臭うな」 「だから、獣臭くなったって言っただろ」 「熊の手はさほどでも無かった」 「胆も触ったからね。其れに、手だって充分臭いよ」 「そうか」 言って、掴んだ手首を勢い良く引けば、気構えが無かったのか間抜けな声を上げて引き寄せられた佐助は、幸村の腕の中で唸った。 「ちょっと………、何なの」 「否、」 「…………。あのさ………、獣肉は精が付くとは言うけど、未だ喰った訳でもないのに臭いで盛る様じゃ、其れって獣と変わんないよ?」 呆れた様な無礼な言葉に、幸村は耳許に鼻先を埋める様にして、溜息を吐いた。 「久し振りだ」 「嗚呼、そうですね」 「帰って来たなら来たと、報告に来い、馬鹿者」 「戻ったのが朝方だったんですよ。朝餉が済んだらと思ったんです。もうちょっと遅かったら、前田の早馬に越されたね」 何でわざわざ早馬かねえ、と笑みに震える喉に、幸村は噛み付いた。 「痛いって」 文句を聞かずに其のまま甘噛みを続ければ、溜息が聞こえてふいに、くるりと腕が返された。 と思えばすと腕の中から逃げられて、幸村は其の早業に幾度か瞬き、其れから立ち上がった佐助を憮然と見上げた。 「佐助」 「外から丸見えなんですって」 勘弁してよ、と肩を竦めて、前田からの贈り物を手に開け放った障子に向かった佐助は、さっと現れた忍びに其れを手渡し小声で何か指示をして、ぴしりと戸を立てた。踵を返し、幸村の正面に膝を揃えて、再び座る。 「はいどうぞ。人払いしましたから」 「………うむ」 朝餉を終えたばかりの時間、改まれば戸惑う。久し振りに顔を見た忍びに触れたい様な気がしただけで、格別そう言った欲求が強い訳では無い以上は尚更だ。 けれどどう触れれば良いのかも良く判らなくなって、えい面倒だ、と幸村は半ば開き直る様に着流しに包まれた肩をぐいと押し倒した。後頭部を打たぬ様、掌を添えては見たが、背を打った勢いが強かったのか、痛えと不満げに佐助は呻く。 不機嫌顔には構わず覆い被さり、幸村は先程噛み付いた首筋へ、再び顔を埋めた。温かくも冷たくもない薄い様な膚から、僅かに水の気配がする。旅の汚れを落とすのに水を浴びたのか、と、長く各地を飛び回って居た事を思い、幸村は佐助、と呼んだ。 「西の様子は、どうだった」 「長曾我部と毛利が手を組んだよ」 「四国と中国だったか」 「うん。長曾我部は良く国を空けるらしいし、毛利水軍と手を組んでおきたい気持ちは強いだろ。豊臣の動きを警戒したんじゃない? あそこんちは、割と神出鬼没だからなあ」 豊臣って言うか、軍師がなあ、とぼやく様に言いながら、骨張った肉の薄い手が、ゆっくりと背を撫でて居る。 「後はそうだねえ。織田と今川は、何となく、焦臭いかな」 「戦か」 「うーん、今直ぐってことでは無いと思うけど……徳川は静観中ってとこかな。まあ、彼処は織田にも今川にも、縁があるしね」 「徳川か。忠勝殿の居る所だな!」 がばと顔を上げた幸村に、そうですよ、戦国最強のね、と苦笑をして、かさかさとした指が頬を撫でた。 「見たか?」 「そうそう、会えるお人じゃねえよ。つうか、俺様はあんたと違って、あんなのとは会いたくねえの。おっかないったらないよ」 「何を、戦国最強ぞ! 手合わせしたいと思うのは、武士として当然の事ではないか!」 「俺様武士じゃねえっての」 やれやれと肩を竦めて、佐助の手が、色気を含まない動きで幸村の髪を掬い、耳に掛けた。 「そっちに気が行ったなら、止しますか? 手合わせでも、する?」 「む……しかし、お前は帰ったばかりなのだろう。疲れているのではないか」 「労るつもりなら、ほっといて欲しいんだけどねえ」 「それは出来ぬ」 なんでよ、と溜息を吐いて、佐助はふと懐を漁った。 「織田で思い出した」 「え?」 「これ、熊と一緒に届いたんだけど」 あんたにあげようと思ってたんだった、とかさ、と和紙の包みを見せて、佐助はずるずると幸村の下から抜けて身を起こした。つられて躯を起こし、膝と額を突き合わせて幸村は首を傾げる。 「何だ」 「菓子だよ。金平糖」 ほら、と広げた和紙から、ころころと星形をした粒が幾つか転がり出た。無造作に摘み上げ、其のままぽいと口へ放るとあっ、と声が上がる。 「なんだ」 がりがりと噛み砕き、甘いな、と言えば、佐助は額を抱えて苦笑した。 「あんた今それ、城一つ分、食ったんだよ」 「何を言っておるのだ。唯の砂糖ではないか」 「唯のじゃねえっての。あのね、これは、一粒で城が建つって言われてる、幻の南蛮菓子なの。織田しか持ってねえの」 がり、と最後の欠片を噛み砕いて、幸村は口元へと手をやる。 「………真か? 此れの、何処に其れ程の」 「製法がね、難しいらしいよ。どうしても、此の星形に造れないんだと。南蛮人も教えてくれないって話さ。まあ、つまり、其の技術の価値だね。城一つってのは大袈裟だろうけど、実際、織田では茶器や焼き物の他に、こいつを賜る事もあるって言うぜ。前田の旦那が、そうやって賜ったもんを、くれたんだな」 「───余程感謝しておるのではないか! 前田の鷹と言うのは、其れ程に」 「唯の鷹だよ。奥方の使役してる方のは大分優秀だけど、旦那のは良く懐いてて丈夫ってくらいが取り柄じゃねえの。でも、まあ、そう言う問題じゃねえのさ。育てて可愛がってんだから、家族みたいなもんなんだろ」 忍びの使う獣とは違うんだよ、と言って、佐助はかさかさと和紙に金平糖を包み、幸村の手に握らせた。 「後で大将と一緒に食いなよ」 「お前の物ではないか。前田殿の気持ちであろう」 「気持ちだけで充分、勿体無いくらいだよ」 さてと、と佐助はうんと伸びをした。 「手合わせしますか? 付き合いますよ」 「お前、疲れておるのだろう」 「まあねえ。でも別に、怪我してるとかって訳でもねえし。付き合わなくて良いんなら、仕事しますよ。報告書書いたり読んだり書状書いたり読んだり、留守の間に大分溜まってるしね」 うむ、と曖昧に頷いて、幸村は軽く眉尻を下げた。 「邪魔をせぬから、居ても良いか」 「何で? 居ても暇ですよ」 「触れたい」 喉で低く呻き、意味を探る様に難しく眉を寄せて、其れから佐助は深々と嘆息した。 「はい、はい。邪魔しないんなら、背中に寄っ掛かってて良いですから」 でも本当にちょっかいは無しですよ、仕事の邪魔したら怒りますからね、と振られた立てた人差し指を握って、幸村は片手で和紙を開いた。ぱらぱらと金平糖が床を転がる。 手の中に残った一粒を口へ放り入れ、床の其れを目で追う佐助の顎をぐいと掴んで口付ける。がり、と噛み砕いた半分を、無理矢理舌で押し込むと、つと砂糖混じりの唾液が落ちる。 「礼儀だ。一つくらいは、食え」 「一つっつうか、半分じゃねえか」 まったく、ぶちまけて、と小言を言いながら小さな菓子を拾う背中と其の襟足でふわふわ揺れる橙の髪を見ながら、幸村はふと唇に手を当てた。唾液を拭い、汚れた指を舐め取る。 「佐助」 「はいはい、なあに」 「よくぞ戻った」 首を捻り、肩越しに見た明るい色の目が、蕩ける様に笑みに緩む。 「はいはい、ただいま帰りました。旦那も留守の任、お疲れ様」 うむ、と頷いて、再び俯き菓子を拾う襟足を、指を伸ばして幸村はつんと引いた。 後ろ髪を引かれ、痛いって、と文句を言った佐助がぱたぱたと払う手に素直に指を引き、懐手に腕を組んで、幸村は細々と動くまるで忍びの様ではない久々に見る姿を、飽く無く眺めた。 |
リクエスト内容:いってきます、いってらっしゃい、おかえり、ただいま、を使ったお話
依頼者様:木津さま
20070327
愛玩/烏の綿毛いってきますといってらっしゃいが入らなくてごめんなさい!
だんなは罠に掛かった忍びを助けてもらったら
上田で一番いい馬をお礼にするといいと思います