かく、とカーブに差し掛かった震動で落ちた頭に目が醒めて、佐助はぼんやりと霞み掛かる頭を上げた。掌の奥でふわ、とひとつ欠伸をする。
 中学前半まで半ば不登校だったせいで、若干成績に不安のある身だ、受験勉強はそれなりに辛い。しかし高校にも上がれぬだろうと半ば諦めていた両親は、大学にまで行こうという気になったのだから、一年や二年浪人しても構わないと甘いことを言う。
 世間と比べて良い両親かどうかなどは解らないが、けれど悪い親ではない、と佐助は思う。何しろこんな厄介な息子を、辛抱強く愛情を持って育ててくれたのだ。家庭崩壊の種となっても仕方のなかった己であるのに、だ。
 無論何の問題もなかったと言うことはない。部屋に引き籠もり夜通し起きている息子に聞こえぬようにと小声で、けれどお互いに責をなすり付け合うような喧嘩をしていたのも幾度も聞いたし、その中で深刻な離婚の危機もあったはずだ。
 けれどそれのどれもが、昔のことだ。たった数年前までの事なのに、何百年も昔の記憶が薄れていくのと同様に、少しずつ、澱が剥がれるようにしこりは溶けた。
 酷く幸せな時期を過ごしている、と佐助は思う。怖くて触れることもできなかったはずの刃物や鈍器を手に石膏や木材を彫る楽しさも、他人の呼気の中に晒されていても何の不安も無いことも。
「───が、さあ」
 電車の騒音の合間を縫い、ふっと届いた声に佐助は何気なく目を向けた。ひとつ瞬く。
 見覚えのある制服を纏った三人の男子中学生は、扉の前の角にたむろして大きな鞄を各々に足下に落としている。その中で一人だけ肩に掛けたままの背の高い短髪は、先日会ったばかりの少年だ。
 横顔しか覗けない幸村は、吊革にも掴まらずにポケットに手を入れて、揺れる車内で危うげもなくバランスを取っている。電車に乗り慣れない佐助には難しい芸当だ。
 何事か話している友人らしき少年に、微かに口元に笑みを浮かべて相槌を打っている様は、物静かではあったが年相応の少年に思えた。友人はいる、心配するなといつか言っていたように、確かに杞憂であったものらしい。
 ふうん、と緩く笑んで、佐助は膝の上の鞄を抱え直し、再び目を閉じた。
 
 
 
 
 
 ちら、と見遣れば長めの髪を額に垂らし、見覚えのある茶色い頭が揺れていた。
 記憶の中の彼はオレンジに近いいわゆる赤毛だったから、地毛なのかと思って訊けば染めているのだという。
 ただでさえ量が多くて重苦しいのに黒髪では根暗に拍車が掛かる、と言った佐助は、けれど幸村が見付けたそのときにはもう、昔通りの軽い物言いをする少年だった。
 同じ路線を使っていたとは知らなかったな、と考えながら、幸村は再度ちらりと佐助を見た。どこに住んでいるのだろう、と思う。結局、本名も住所も未だ知らないままだ。
「知り合い?」
 凝視していたつもりもなかったが、ちょくちょく気にしていたせいで気付かれたらしい。首を傾げた友人に曖昧に頷いて、幸村は肩の鞄を揺すり上げた。追及することなく話を再開した友人に相槌を打ちながら、幸村は背中で座席一列分向こうの存在を意識した。
 名前や住んでいる場所やどこの学校なのか、そんな個人情報にはさほど興味はなかったが、けれど俯き髪に隠れた寝顔は、いつか見たい。昔の佐助とは違う顔で、けれどどこか似ているはずだ。
 昔々の己であれば考えなかったかもしれないようなことを思い、幸村は相槌の合間にふと口元で笑った。

 
 
 
 
 
 
 
20081014
初出:20080308