ほ  の  ほ

 
 
 
 
 
 
 やたらと指が冷えると思えば雪だった。
 間取りを頭に叩き込んだ城から脱出した途端のほの白い景色に、うっそぉ、と佐助は情けない声を洩らして風に合わせ、木々の合間を跳んだ。ごさごさと揺れる枝から落ちる粉雪が、風に舞って散って行く。
 間取りを正確に記憶している間に少しばかり複雑だった罠の仕掛けを書き付けてしまいたかったが、かじかんだ指では出来そうにもない。屋敷か、せめて武田領内の隠れ家へ戻るまでは無理そうだ。
 口布に遮られて吐く息の白さは散り、冷えを押さえるために首筋手首足首に巻いた布のお陰で取り敢えず酷く動きが制限されることも、止められぬ震えが湧く事もない。
 重装備で良かった、と昨夜の冷えにへこたれた己に賛辞を送っておいて、佐助は薄曇りの夜明けの中、凍る空気を切って跳んだ。
 
 
 
 雪ですよ幸村様、と起こされて、朝餉の間に屋敷の各所に持ち込まれた火鉢の火にいよいよ本格的に冬だなと考えながら、幸村は自室の火鉢を掻き回し、炭を足した。赤々と熾きた炭が、額に照り返し、少々熱い。
 羽織を脱いでしまおうか、と大分暖まって来た部屋に思いつつ炭をつついていると、只今戻りました、と板戸の向こうから声がした。入れと言えば、遠慮無くがらりと戸を開けて、うわあ、と佐助は緩んだ声を出した。
「あったけえな、此処。良いねえ、人が凍えながら仕事してるってえのに」
「ぶつくさ言っていないで、戸を閉めて此方へ来い」
「って言いながらあんたはなんで羽織り脱いでんの! 暑いんならもうちょっと火を落とせばいいでしょうが。炭だってただじゃないんだから」
「さっさとしろ」
 はいはい、と溜息を吐いて板戸を立て、ひたひたと真っ赤な足先でやって来た忍びの腕を掴み、幸村は少しばかり火鉢から離れて己と火との合間に冷えた躯を引き込んだ。
「ちょ、ちょっと、何」
「氷の様だな」
 胡座を掻き、背から抱いて腹に回した両腕をきつく巻き付ければ、密着した躯から己の熱が流れて行くのが判る。ふと緩んだ背が、次にぶる、と大きく震えてそれから安堵の様な息を洩らした。
「あー、あったけえ」
「首尾はどうであった」
「俺様がしくじるはず、ないでしょ。何時でも、お召しの時に描き付けますよ」
「うむ。その時には頼む」
「はいよ、了解」
 肩に顎を乗せると、触れた耳朶が酷く冷たい。それにぐりぐりと頬を押し付ければ、嫌がりもせずに頭が横に倒れて凭れた。
「腹は減ったか」
「いや、ちょっと水飴舐めた。寒くって手足動かなくってさ、戻るまで跳べねえと思って」
「それで済むのか」
「ま、取り敢えずは。後で頂くよ」
「風呂を沸かすよう、頼んである」
「贅沢だねえ」
「他の者も直戻るだろう。皆で使え」
 有難いこって、とゆるゆると笑う佐助の指先を片手に掴んで擦り、もう片手で足の爪先を握る。血が巡っていないのではないかと思う程冷えた指先が、熱い掌にぴくと竦み、一瞬置いて酷く緩慢に脱力した。
 ゆっくりと、幾分か力を込めて手足を擦っていると、やがて軽く凭れていた頭がかくんと落ち、はっとした佐助が慌てて顔を上げた。
「やべ、寝てた」
「構わぬぞ」
「いや、午には会合済ましちゃわねえとならねえから、その前に書き付けしてお館様のとこに届けて、あと西に烏飛ばさねえと」
「忙しないな」
「まったくだ、忍び使いが荒いったらねえよ。でもま、夕方には全部済んで、そしたら俺様は明後日まで非番だし」
 もぞと身動いで離れた躯を解放してやりながら、幸村は大して触れてやれなかった頬を耳ごと掌で包み、乱暴に擦った。
「ならば、夕刻にはまた此方へ来い」
「へ?」
「屋敷の内で最も温かい部屋の筈だ。雪は止みそうだが、今夜も恐らく冷えるぞ」
「あー、いや、俺様今日は、帰ろうかなあなんて」
 佐助の自宅はそれ程離れている訳ではないが、こんな道の状態の悪い日に帰る事などほとんどない。城ではなく甲斐の真田屋敷とはいえ忍びの屯所はあるし、其処で寝泊まりするのが常だ。
「珍しいな。何か用でもあるのか」
「い、やあ……用って程でも」
「ならば、構わぬではないか。大体、此の急な雪だ。上田なら兎も角、甲斐の家には、まだ冬の支度もしておらぬだろう」
「ええっと、正確には家に帰るんじゃなくって」
 へら、と笑って佐助はぽんぽんと幸村の胸を叩いて少しばかり身を離した。
「ちょっと酒でも呑みに出ようかなって」
「お前が来るのに、酒も出さぬおれと思うておるのか」
「いやいや、そうじゃなくって、そのね、お店の」
「店の?」
 察しが悪いなあ、と首を竦めて、佐助は投げ遣りに溜息を吐いた。
「女の子とお酒が呑みたいなって思ったの」
「…………女中でも呼ぶか?」
「ばか、女房さん方にお酌なんかさせらんねえよ! て言うか、お店の女の子と酒呑みたいってだけであんたのお誘い断るわけないでしょ! あんたの出してくれる酒の方が絶対上等だってのに」
「ではなんだ、仕事か」
 うわああ何て察しが悪いんだ、と頭を抱え、佐助は情けなく呻いた。
「もう、もういいです。お誘い有難うございます。お言葉に甘えてこっちに泊めてもらいます」
「無理に誘っておるわけではない。用があるなら構わぬ」
「いや、だから、もういいから」
「しかし、一度は断ったではないか。お前がおれの誘いを断るなどそうはないぞ。相応の理由があろう」
「………ほ、本当、朴念仁」
 両手で顔を覆いしくしくと泣き真似をして、佐助は酷く情けない顔で指の間から幸村を見た。
「あのね、旦那。俺様は忍びです」
「それがどうした」
「忍びっていうのは、欲の誘惑を断ち切って仕事をするものなんです」
「うむ」
「でね、俺は近頃、ずっと働き通しだったわけ」
「知っておる」
「酒も女も絶ってたわけよ」
「…………」
「溜まってんの。抜きたいの。だから手っ取り早く楽しくお酒も呑めて女の子と仲良く出来るとこに行こうかなって思ったの。判った?」
 ぐら、と躯が傾いだ気がした。ぐわんぐわんと耳の中で妙な音が響いている。下賤の様でいてその実外連味の強い語りを好む佐助の口から、こうも直裁な言葉が聞ける事はそうない。
「わ………判、った」
 判ったのかそりゃ珍しい良かった良かった、といい加減に言って佐助は身を伸ばし、立ち上がった。
「さ、佐助……」
「なに」
 うろうろと視線を彷徨わせて、幸村は俯いた。羽織りも脱いだというのに、酷く暑い。
「や、矢張り今宵は、此方へ来い」
「嗚呼、うん、いいよもう。そのつもりだよ。遊びに行こうかなって思ったのも、思い付きだし」
「何?」
 怪訝に思い顔を上げれば、佐助は少しばかり戯けて態とむくれて見せた。
「旦那がぎゅうぎゅうにくっつくもんだから、そういや溜まってたっけなって、思い出しちゃったんだよ」
「な、」
 目を瞠れば佐助はにやと笑って身を屈め、幸村の顔を覗き込んだ。
「嘘嘘、冗だ、」
 手を伸ばし項を強引に引き寄せて唇を合わせれば、咄嗟に手が肩へと掛かり、倒れ込むのを防ぐ。それを無視して膝裏へと片腕をやり掬い上げて横抱きに膝へと落とせば、肩の手が慌てて布地を掴んだ。
「責任は取る」
「ば、あんたがその気になったってだけの話じゃねえか! 俺にかこつけないでよ」
「しかし何故、おれに言わぬ」
 首にぶら下がる様に腕を絡めたまま、佐助はやれやれと溜息を吐いた。
「なんで俺の事情で、あんたに抱いてくれなんて言えるのよ」
「構わぬぞ」
「そういう誘い文句が聞きたいなら、側女か小姓を付けなさいよ」
「誘われたいわけでも、誘いたいわけでもない。お前が欲するものを与えてやりたいだけだ」
「……あ、そう」
 此方は大真面目だと言うのに佐助はやれやれと再び溜息を吐いて、不安定な体勢から軽々身を起こして立ち上がった。
「無駄に男前なんだから」
「ん?」
 どういう意味だ、と首を傾げるが佐助は答えず、取り敢えず、と薄らといつもの笑みを浮かべる。
「残りのお仕事、片付けて来ますよ。お風呂、隊で頂いちゃって構わねえんだよな?」
「嗚呼、構わぬ。使わせてやれ」
「はいよ、有難く」
 ひらひらと手を振って、旦那もお仕事片付けちゃってよね、と言い置き、佐助は板戸を開く事無くつむじ風を巻いて姿を消した。
 室内では珍しい逃げる様な辞し方にひとつ瞬き首を傾げ、それから幸村は成る程、と呟き顎を撫でた。
「照れておるのか」
 なかなか可愛い所がある、と頷けば勝手に笑みが湧いて、幸村は押さえても押さえても緩む口元に、ばしん、と己の頬を打って気合いを入れた。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『ほのほ』はリクエストをくださった深川さまのみお持ち帰り・転載可です。
他の方のお持ち帰り・転載などはご遠慮ください。
転載について


リクエスト内容:砂吐くくらい甘いさなさす
依頼者様:深川さま

20071121
今君だけのために 赤い火になる
ほのほ/スピッツ

あ、あんまり甘くなくってごめんなさい…orz